弾丸、西へ…京都 六波羅蜜寺 | ふぅの想いのまま…心赴くまま…

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三十三間堂の次は歩いて六波羅蜜寺に向います

いよいよ六波羅に足を踏み入れます👣

三十三間堂からは歩いた方が早そうなので、徒歩移動🏃🏃🏃
約20分程で着きました




六波羅蜜寺の山門の写真が観光客で撮れなかったので、弁天堂側からの出入りを……📷




六波羅蜜寺の縁起案内板




空也上人像と文化財リスト





手水舎




一願石と十一面観世音菩薩




阿古屋塚   宝塔は鎌倉時代作
平景清の思い人で、五条坂の白拍子だった阿古屋の菩提を弔うための宝塔

平家残党を探す畠山重忠は、阿古屋を捕え詮議のために、琴 三味線 胡弓を弾かせた(阿古屋の琴責)
しかし、音色に一点の乱れもないことから景清の所在を知らないとして釈放した

奉納は5代目 坂東玉三郎



平清盛公乃塚




お地蔵様
境内から発掘されたお地蔵様




六波羅浄心苑





弁天堂



六波羅弁財天像
崇徳天皇の夢告により、禅海上人が造立
十住心院の本尊でしたが、明治の廃仏毀釈で六波羅蜜寺に遷座しました

日本最古の都七福神




本堂
真言宗智山派寺院の六波羅蜜寺は、補陀落山 普門院 六波羅蜜寺と号します

平安時代の中期 天暦5年(951年)創建
開基は村上天皇、開山は醍醐天皇の第2皇子の光勝空也上人
当初は西光寺と称していました

都に流行していた悪疫退散の為に、空也上人自ら十一面観世音菩薩を刻み、市中を曳き廻り病人に茶🍵を授け、歓喜踊躍して病魔👿を鎮めたと言います
その茶🍵は皇服茶、踊躍は六斎念仏として今に伝えられています

空也の死後、貞元2年(977年)比叡山延暦寺の僧侶 中信が中興して六波羅蜜寺と改称、天台宗に属する天台別院となりました

平安時代後期、平家一門の屋敷が建ち並び平家と密接な関係でしたが、寿永2年(1183年)平家が都落ちした際に、諸堂が炎上焼失🔥
本堂のみが焼失を免れました

源頼朝や足利義詮により再興が行われ、貞治2年(1363年)再建
文禄年間(1593〜1596年)豊臣秀吉により本堂が修理され、この時に真言宗智積院の末寺になったそうです

御本尊 十一面観世音菩薩
西国三十三所17番札所
洛陽三十三所観音霊場15番札所
都七福神めぐり 弁財天
神仏霊場巡拝の道118番札所



貞治2年(1363年)再建のもの




道元禅師の説法した時の建碑




撫で牛🐮




銭洗弁財天と水掛不動尊が奥に有ります








拝観して参ります😁




パンフレットより

おぉ~
空也上人像
運慶の4男康勝の作


東京国立博物館で空也上人の像を初めて拝観した時には、本当に驚きました

毛皮を纏い、鹿🫎の角の杖に口から阿弥陀様…
強烈なインパクトで、この空也上人像だけは忘れられないお像です







運慶作品

他にも、トーハクで拝観した仏像にまた出会えました😁



令和館の裏手には聖天堂
立ち入り禁止で、人目につかない場所に有りました




西国三十三所の御朱印




空也上人の御朱印




六波羅蜜寺のパンフレットと破地獄守

破地獄の御守りを購入


地獄に落ち👹、業苦を受けることを逃れ、日々苦しみを除き、心穏やかに生きる力を授かる御守りだそうです


阿古屋塚で、まさか畠山重忠の名前が出て来るとは…


白拍子も遊女とは違い、今の舞妓さんや芸子さんの類なのでしょうかね…

歌舞伎の題材にもなることから、5代目坂東玉三郎が奉納したと思われます


それにしても、空也上人像

強烈でしたぁ~😂