舟木一夫の南座公演に行って来ました

~声の艷も味わいも79歳の今が最高!

~曲目&トークに「京都」への気配り~

~正面の看板に“英文字”が入りました~

 

 

 本題に入る前に―。TBS系の「プレパト」を見て、俳句に興味を持たれた方が多いようです。「山笑う」は3月半ばから下旬にかけてよく使われる春の季語で、山の草木が一斉に芽吹き始め、動物も動き出して華やかになった山の様子を表しています。正岡子規の句に有名な「故郷(ふるさと)や どちらを見ても 山笑う」があります。時候の挨拶にも「山笑う季節になりましたが、いかがお過ごしですか」などと使います。山を主語にした季語としては、「山滴る(やましたたる)」という夏の季語、「山粧う(やまよそおう)」は鮮やかに色づいた山で秋の季語、「山眠る」は生き物も静まり返っているような冬の山を表す冬の季語です。

 

 

 

 本題に入ります―。舟木一夫さんが2024年4月5日(金)から7日(日)までの3日間、京都市東山区四条通の南座で行うシアターコンサートの初日に行きました。1階から3階席まで満席でした。私が申し上げるのも失礼ですが、舟木さんは80歳に近づくほど「歌」が良くなっていて、声の艷も味わいも最高でした。また、構成、選曲、それにトークにも「京都」への気配りを感じました。では、今日のステージの模様を。

 

 ※暗いところでの手書きのメモによるものですから、舟木さんのトークの発言内

 容などは“そのまま”ではありません。

 

 

開演前の会場の様子。私の見る限り、1階から3階まで満席でした

 

 

 開演の13時半丁度に舟木さんの「逢う瀬」の歌声。ピアノ伴奏で1コーラスが終わったところで緞帳が上がりました。黒地にベージュの絣の着流し、ベージュの帯、素足に下駄姿で登場。続いて「京の恋唄」と京都ならではの選曲です。第一声は「桜が満開なのに何でこんな暗い中にいなくちゃいけないんだ…お弁当持って出かけたいですね。そんな中、ようこそ。二部構成でいきます。どうぞ、ごゆっくりお楽しみください」。

 

 「初恋」「夕月の乙女」「あゝりんどうの花咲けど」の3曲を歌った後、「今はこうした抒情歌の風景は歌われなくなっちゃった。京都も観光客のお客さまが多くて結構なんですが、抒情歌に歌われるような風景がなくなってしまわないかと…」。続いて「スケールの大きな歌二つ」として、「都井岬旅情」と「帰郷」を舟木さんならではの歌唱で歌われ、これは聴き惚れましたね。「都井岬旅情」は服部良一さん、「帰郷」は船村徹さんの作曲です。

 

 そして、お馴染みの「絶唱」「夕笛」「恋唄」(時には「初恋」)の“抒情歌3部作”。舟木さん曰く「今日のようにたまに着物で歌いたくなる歌」ですが、一部構成の場合はなかなかチャンスがありません。やはり、着物姿で聴くと一味もふた味も違って聞こえてきます。というわけで、この辺で「曲目リスト」を載せます。

 

 お詫びと訂正】 舟友さんのご指摘で曲順が一部間違っていました。新しいものに差し替えましたので、ご確認ください。申し訳ありませんでした=6日17時10分。

 

              《曲目リスト~初日》

  

 <第一部>

 オープニング

 ①    逢う瀬

 ②    京の恋唄

 

 ③    初恋

 ④    夕月の乙女

 ⑤    あゝりんどうの花咲けど

 

 ⑥    都井岬旅情

 ⑦    帰郷

 

 ⑧  絶唱

   ⑨  夕笛

 ⑩    恋唄

           

 <第二部>

 オープニング

 ①    燦めく星座

 

 ②    あゝ青春の胸の血は

 ③    仲間たち

 ④    君たちがいて僕がいた

 

 ⑤    山のかなたに

 ⑥    あいつと私

 ⑦    雨の中に消えて

 ⑧    北国の旅情

 

 スタンディング

 ⑨    銭形平次

 ⑩  親不孝通り

 

 ⑪  紫のひと

 

 ⑫    今日かぎりのワルツ

 ⑬    たそがれの人

 ⑭    湖愁

 

 ⑮  高校三年生

 ⑯  学園広場

 

 ⑰  花咲く乙女たち

 ⑱  東京は恋する

 ⑲  北国の街

 

 ―エンディング―

 ⑳  哀愁の夜

 

 アンコール

 ㉑    高原のお嬢さん

 

 

 第二部はレンガ色のタキシード、黒の蝶ネクタイ、黒と白のポケットチーフ姿で登場。舟木さんは「コンサートの前に会場の正面を確認させていただいているんですが、(両手を広げて)こんなに長い看板に、こんなことをしている(とポーズをとる)わけです。それを外人さんが指さしてガイドさんに「これなんだ?」ってしゃべっているんです。もう少し気を効かせて英語で「Japanese singer No.1 FUNAKI KAZUO」って書いてくれたら、お客さんもう少し増えたかも。惜しいことをしました」。

 

5日の初日の南座正面の看板には英文字がありません

 

 

 

 

 6日の看板には右の部分に英文字が入りました。下は拡大したものです

 

 客席から大爆笑。もちろん冗句ですが、もし2日目から舟木さんの”希望”通りの文字が入った(紙を貼った)看板が現れたら、私は南座のトップの方に「何てシャレの分かる方でしょう」って拍手喝采を送りたいと思います。こちらは私流の冗句ですが、ひょっとすると、ひょっとするかもですよ……。

 

 舟友さんによりますと、2日目の6日午前中に職人さんによって、看板に「KAZUO FUNAKI THEATER CONCERT in Minamiza」という英文字が入れられました。No.1 singerの文字はありませんが、舟木さん、あっぱれ!!と叫びたいところです(笑)。トークでも「お陰様で今日足していただけました」と触れられたそうです。

 

 

 あえて「青春歌謡らしい曲」と断って歌ったのがテレビの連続ドラマの主題歌だった「山のかなたに」「あいつと私」「雨の中に消えて」の3曲と映画の主題歌の「北国の旅情」。最後の曲は「十朱幸代さん、山内賢さん、黄門様(東野英治郎さん)が出ていました。それまでマコちゃん(和泉雅子)、チーちゃん(松原智恵子)ら若い女優さんと仕事をしていたので、幸代さんは大人の女性でした」と“解説”がありました。

 

 この後、スタンディングで「銭形平次」と「親不孝通り」の2曲。「銭形平次」を中断して「3階で立っている方危ないですよ。年なんだから座ってください」。再開するも、3階の皆さんは元気にスタンディング。終わると「誰も落ちてこなかった。南座はお芝居がしやすいサイズの劇場で、(角度が急になっている手振りをしながら)3階席でもいろいろな小道具の質感が伝わるんです」。なるほど。

 

 「親不孝通り」は1973年2月3日から22日まで、東京・渋谷の東横劇場で美輪明宏さんとの異色コンビで演じられた「愛する時も死する時も」の挿入歌。美輪さんの大ファンでもあった私が学生時代に一人で観に行ったお芝居で、その感動を日記帳にも書きました。そんなわけで、この歌を聴く(今回は皆さんと一緒に騒ぎましたが…)と当時を思い出します。 

 

 

 ここでモスグリーンのジャケットに着替えて、サキソフォンの冴えた音の中、「紫の人」。続いて柔らかく美しいメロディーの曲と紹介して「今日かぎりのワルツ」「たそがれの人」「湖愁」の3曲。舟友さんから、「湖愁」の際には天井に大きなモザイクのハートが出来ていたというご指摘をいただきました。舟木さんは続けて「まだ出てない歌が…。これを歌ったら帰っちゃう人が一人二人います。私は傷つく…」などと言って「高校三年生」と「学園広場」に繋げました。「湖愁」から「高校三年生」への流れです。 

 

 「北国の街」の後で黒いジャケット(白のポケットチーフ)に着替えて階段を上り、口笛を吹きながら「哀愁の夜」(5番も)でエンディング。アンコールの後、白いジャケット(赤いポケットチーフ)に着替え、「若い頃は目標を持つことを考えていたが、今は起きたら生きているかどうか…。歌を歌って楽しく旅が出来たらいい。皆さん、よろしく」で「高原のお嬢さん」。歌い終わって舟木さんが挨拶をすると、お客さんは全員がスタンディング。舟木さんも階段をかけ上り大きく手を振って応えました。

 

 

image

      南座近くを流れる鴨川。下鴨神社近くの高野川合流地点から上流を「賀茂川」

     、下流を「鴨川」と呼んでいるようです。

      舟木さんのオープニング曲「逢う瀬」では、♪京は賀茂川 たそがれに…と

      使われています

 

 

賀茂川べりの雪柳の向こうに見える南座

 

 

   舟友さんによりますと、公演期間中、舟木さんは四条橋の向こうから歩いて劇場入りされ、帰りはタクシーを使って宿泊先に向かわれたようです。また、千穐楽に正面玄関に立てられた「本日千穐楽」の写真も送っていただきました。来年5月にも南座でコンサートが行われることが決まったと、舟木さんがおっしゃったとのことです。この後、舟友さんたちは舟木さんを新幹線京都駅でお見送りしたそうです。皆さんも、お疲れさまでした。

 

 

   下は舟木さんのコンサート活動を応援している㈱アイエスが5日に出されたX(旧ツイッター)です。本文中の「本日」は5日のことです。

 

 

 

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「オードリー」の舞台裏

 

 「銀座百点」という月刊冊子の2001年2月1日発行号(NO.555)に表題のタイトルで、小田島雄志さんと村松友視さんが大石静さんをゲストに迎えて鼎談しています。 この中で、以下のようなクダリがありますので、ご紹介しておきます。

 

 小田島 「オードリー」はあなたが育った駿台荘をモデルにしてると言っていい

     のかな。

 村 松 構造はそうですね。実母と養母の二人の母とか、家が旅館とか、父親が

     アメリカ育ちで、あなたのことを実際にクリスティーンと呼んでいたと

     か……。

 大 石 そうなんですけど、あれが自伝と受け取られるのはイヤなんですね。た

     だ、NHKのプロデューサーから「あなたの書いたエッセイのこの部分だ

     けをちょっとネタとしてほしい」と言われたので、家庭環境なんかは使

     ってますけど、五歳以降はまったくのオリジナルです。

 

 そして、駿台荘には中央公論、文藝春秋、岩波書店、筑摩書房などの編集者のほか、五味康祐、松本清張、平野謙、開高健らの各氏のほか、檀一雄氏は「彼女と会うときは山の上ホテルで、お書きになるときはうちだった」(大石)と話し、「結城のいい着物なのに、グチャとした着方でね(笑い)」。

 

 また、大石さんは「開高先生はすごい夫婦喧嘩をなさってましたよ、うちで。でも私がエッセイにそのことを書いたら、奥様の牧羊子先生は『駿台荘で喧嘩した覚えはない』ってお怒りだったんですけど、うちは襖が破けちゃったりして大変だったんです(笑い)。でも開高先生は素敵でしたよ、洋風で」と語っています。

 

 幹幸太郎について、青年座の養成所を出た後に商業演劇に出たことがあるという大石さんは「市川雷蔵さんが度の強いメガネをかけて学生服姿で『これからのスターだよ』と(大映社長の)永田(雅一)さんに連れてこられて役員会議室に顔を出したということがあったので、それをちょこっといただいているんですけど」とも。