奈良・壷阪寺
舟木一夫~2024年コンサート曲㉑
「絶 唱」
―後半に「オードリー」第2話、第3話の“感想”―
昭和22年 初版
本題に入る前に―。桜の季節になると、坂口安吾の短編小説「桜の森の満開の下」を想起します。1947年5月15日に真光社から出版された単行本「いづこへ」に収録されています。ある峠に住む山賊と妖艶な女との幻想的な怪奇物語で、wikipediaによると、花びらとなって搔き消えた女と、冷たい虚空が張り詰めているばかりの花吹雪の中の男の孤独が描かれています。1975年5月31日公開の映画「桜の森の満開の下」(監督・篠田正浩、脚本・篠田&富岡多恵子)では、山賊に若山富三郎、女に岩下志麻が扮し好演しました。また、1989年には劇団夢の遊眠社によって「贋作・桜の森の満開の下」(作演出・野田秀樹)として初演され、2017年8月には「野田版桜の森の満開の下」が歌舞伎座で上演されています。
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本題に入ります―。舟木一夫さんが2024年通常コンサートの21曲目に選んだのは、1966年8月にリリースされた「絶唱」(作詞・西條八十、作曲・市川昭介)でした。79歳になられて、この「絶唱」と「夕笛」の歌唱は“今が一番いい感じ”になっていると思います。とりわけ、「夕笛」は高い音も低い音も実に気持ちよく出ているように思います。拙著を書くにあたっての私のインタビューに「吹っ切れた」という言葉を発出されましたが、まさにそういう状況のもとでの歌唱だと思います。
1966年の春でした。舟木さんは大江賢次の小説「絶唱」を映画化したいと自らの企画を日活に持ち込みました。すんなり通ると思っていましたが、日活専務の江守清樹郎さんが、6年前に小林旭&浅丘ルリ子で撮った際もヒットしなかった苦い経験があったため、「今時、こんな暗いものは当たらない」と強く反対して譲りませんでした。舟木さんが映画「哀愁の夜」や「友を送る歌」で意気投合した監督・西河克己さんに相談しました。
西河さんは「兵隊になって出兵する時は丸刈りにならないといけない」と言うと、舟木さんは「僕はやります」と返事。西河さんは製作部長に掛け合うと、「断髪式をやって前宣伝すればいいか」ということになり、舟木さんも江守さんに「入りが悪かったら、次の作品は無条件、ノーギャラで出ます」とまで言ったため、さすがの江守さんもGOサインを出さざるを得ませんでした。舟木さんは、今の自分に合っている作品だと拘った映画で、主題歌も要らないと申し出ました。
しかし、「歌手・舟木一夫」を映画に出しているという感覚の日活は、これは譲れませんでした。舟木さんも納得し、ディレクターの栗山章さんと相談していた矢先、作曲家の市川昭介さんが「新人の作詞家の詞に曲を付けたので聞いて欲しい」と言って「まぼろしの君」という作品を持ってきました。売り込みです。栗山さんは目の前でピアノで弾いた市川さんの曲調を聞いて「これだ!」と直感し、すぐ市川さんをタクシーで成城の西條八十宅に連れて作詞のお願いに行きました。
西條さんは「高校三年生」を聴いた時から、舟木さんの雰囲気が自分の作風に合っていると思っていました。「高校三年生」をヒットさせた弟子の作詞家・丘灯至夫さんに「お前、いい歌作ったな。俺にも舟木君の歌を書かせろよ」と言って、「花咲く乙女たち」で開花しました。そんな関係でしたから、西條さんは「絶唱」を2週間で詞を書きあげました。この時74歳、舟木さんは21歳。西條さんは翌年に「夕笛」を書き、1970年8月12日に自宅で78歳で亡くなりました。最晩年の作品です。
舟木さんは出来上がった「絶唱」の詞を見て、「ワンコーラスの最後に一番言いたい“なぜ死んだああ小雪”と臆面もなくヌケヌケと書いている。歌い手が小細工するとダメな歌」と直感しました。小雪を和泉雅子が演じた映画は9月17日に公開されると大ヒットし、同年度に公開された日活映画の配収1位に輝きました。そして、西條さん作詞の「絶唱」も大ヒット。西條さんは栗山さんを面会謝絶の病室に通し、「あなたは私の晩年を飾ってくれました」と大変感謝していたと言います。
当然、「絶唱」は年末の第8回日本レコード大賞で、前年末発売以来快進撃を続けていた加山雄三さんの「君といつまでも」とともに最有力候補になりました。しかし、結果は10月15日にリリースされたばかりの橋幸夫さんの「霧氷」がレコード大賞、舟木さんの「絶唱」が歌唱賞、加山さんが特別賞ということになりました。舟木さんは「レコード大賞が不思議な回転をした年で、へぇー? 俺の歌が歌唱賞! という感じでしたね」と含みのある発言をしています。
裏でいろいろ“細工”した結果、レコード大賞事務局でそういう治め方をしたのでしょう。しかし、舟木さんにとっては、大賞を逃したことより歌唱賞を獲得したことによる負担がのしかかってくることになりました。大先輩たちが受賞してきた“勲章”を自分のような若輩者が受賞したことによる責任感の重さが徐々に自分自身を苦しめるようになります。そして、1991年12月5日の東京・中野サンプラザのコンサートでスタートさせた「プレ30周年コンサート」から“封印”してしまったのです。
中野サンプラザ
舟木さんが“封印”後、初めて解除して「絶唱」を再び歌い始めるのは、1993年9月14日に東京厚生年金会館で行われた「30周年ファイナルコンサート」のステージからでした。このコンサートには「絶唱~ありがとうあなた」と“副題”が付いていました。舟木さんはトークもなくアンコールで「吉野木挽唄~絶唱」を歌い始め、会場はびっくりして凄い拍手に包まれました。その際、舟木さんからコメントはなく「それじゃあ31年に向かって歩いて行こうと思います」と挨拶があったということです。
東京厚生年金会館
まぁ、いろんなことがありましたね。そんな舟木さんも今年の12月12日には80歳です。今の「絶唱」が一番いいと感じていらっしゃる舟友さんも少なくないんじゃないでしょうか。
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「オードリー」第2話、3話も観ました!!
<第2話>
4月2日(火)午前7時15分からNHKBSで連続テレビ小説「オードリー」の第2話が放送されました。以前に見たことは完全に忘れてしまっていますので、同じような方(おられないか!?)のために、登場人物について若干触れておきます。
大竹しのぶさんの役は100年の伝統を持つ老舗旅館「椿屋」の女主人・吉岡滝乃。両親の死後、22歳で女主人になり、結婚もせずに椿屋を切り盛りしています。主人公の佐々木美月を実の娘のように可愛がり、やがて椿屋で生活させるようになりますが、実母の愛子には略奪行為ともとれ、上手く行きません。
賀来千香子さん演じる佐々木愛子は美月の実母。椿屋の女主人・滝乃の世話で春夫(段田安則さん)とと見合い結婚し、京都に住みますが、美月はたびたび滝乃に連れ出され、やがて椿屋で寝起きするようになります。滝乃と愛子は美月の教育方針をめぐって、ことごとく対立します…。
段田安則さん演じる春夫は12歳の時、ロサンゼルスに移民。カリフォルニア大学工学部建築学科を卒業して終戦後に故郷の京都に戻り、愛子と結婚。椿屋の隣に住み、翻訳や観光ガイドで生計を立てています。娘の美月をオードリー・ヘップバーンにちなんで「オードリー」と呼ぶようになりますが、これが美月を深く傷つけます…。
第2話は、大京映画2大看板スターである舟木一夫さん演じるクリキンこと栗部金太郎、林与一さん演じるモモケンこと桃山剣之助に続く新人スター、佐々木蔵之介さん演じる幹幸太郎を売り出そうと、3枚看板で公開する新作「疾風・三本の剣」の製作発表を行います。クリキンは白頭巾、モモケンは浪人風の着流し衣装で登場しました。4
1951年生まれの大石静さんの脚本で、次も観たくなる上手さですね。大石さんは連続テレビ小説「ふたりっ子」(第15回向田邦子賞・第5回橋田賞受賞)に続いての第2作ですが、1作目に組んだ演出家・長沖渉さん(1951年生まれ)との最強コンビで挑んだ作品です。
<第3話>
3日(水)7時15分から「オードリー」第3話が始まりました。1954年に中村錦之助(のちの萬屋錦之介)らが出演して大当たりした東映映画「笛吹童子」を上映する映画館のシーンから。
舟木さんが上田成幸少年時代に観た多くの時代劇映画の中でも、「紅孔雀」(1955年)とともに最も強く印象に残っているという映画です。舟木さんは10歳前後。上田少年はこのころから時代劇にはまっていきました。
「オードリー」では、この映画とともにクリキン、モモケン、幹幸太郎の「疾風・三本の剣」も大ヒットしたという岡本綾さんのナレーションが入ります。そんな1954(昭和29)年12月に美月の弟・梓(あずさ)が誕生しました。
この頃には美月は隣の「椿屋」で寝起きするようになり、まもなく両親の知らない中で、滝乃によって美月の部屋が造られます。愛子は「ひとつ屋根の下で子供を育てるのが親の愛」だと反発します。大石さんの“らしい脚本”が光ります。
次の映画館のシーンでは、クリキン、モモケン、幹が立ち回りを演じる「三本の矢」のカラー映画が映し出されます。白頭巾姿の栗部金太郎、というか舟木さんの時代劇役者としての姿勢がなんとも美しいです。
「椿屋」のシーン。横で寝ている美月の具合がおかしいと気づいた滝乃がすぐ椿屋の客の医者を呼び出します。愛子は「どうして知らせてくれなかったの!!」と滝乃に怒りますが、先生から「複雑な発言は幼児の負担になります」と注意されます。
やがて、滝乃は「いい考えがある」と言って、「椿屋」と隣の両親宅の間に“渡り廊下”をつくり既成事実を重ねていきます……。私も毎回、感想を書いていく自信がありませんので、いったん、ここで止めておきます。皆さまには引き続き、お楽しみに。
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