舟木一夫と和泉雅子㊥
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舟木一夫さんと和泉雅子さんの話を続けます。
『近代映画』1963年6月号ーWikipediaよりー
舟木さんと和泉さんの日活映画の中でも最高傑作は「絶唱」(西河克己監督、1966年9月17日公開)です。和泉さんは以下のように語っています。
「この映画は舟木君が企画して、すべて本人が会社(日活)と交渉して撮影にこぎつけた作品なんです。最初は『こんな暗い映画は当たらない』って会社の上層部に断固反対されたんですが、お客さんが入らなかったら次回作はノーギャラで出るって言って説得したらしいの。当時はそこまで映画にかけているとは思わなかったので、後でその入れ込みようを知って腰が抜けるほど驚きました」
舟木さんはすでに9本の日活作品に出演して好成績を上げていたからスンナリ通ると思っていました。しかし、製作面も仕切っていた日活専務の江守清樹郎さんが強く反対しました。6年前に小林旭&浅丘ルリ子で撮った際もヒットしませんでした。舟木さんは「哀愁の夜」や「友を送る歌」で意気投合した西河監督に相談しました。前の作品を見ていた西河監督が舟木さんに「兵隊になって出征するところは丸刈りにしないといけない。君はそんな訳にいかんだろう」と仕向けると、舟木さんは「僕やります」と言い切りました。ここから話が進んで行きました。和泉さんもこの映画にかけました。以下は、その思いが伝わってくる回想です。
この映画では監督さんから「小雪役を本気でやりたいんなら、まずニキビを直し、そして痩せなさい」という絶対条件が付けられたんです。私としては珍しくやってみたい役だったので頑張りました。バターやジャムのないパン、マヨネーズもドレッシングもない野菜、白身の魚、鳥のささ身、マスカット少々という毎日のメニューで2か月間こなしました。それで8㌔痩せたんです。
でも、少し無理しすぎたんですね。小雪が病気で死ぬ場面では、本当に病気のような気がしてきて食事がのどを通らないし、セットの布団から起き上がることも出来なくなったんです。試写会の時に吐き気と眩暈(めまい)がしたので病院に行ったら、先生から「栄養失調です」って言われたんです。もうあわてて食べまくり、今度は12㌔もリバウンドしたんですよ。
映画をご覧になると、縁側で若様役の舟木君が長い台詞を言うシーンがあります。私は死体の役だから寝たまま聞いていればよかったんですが、舟木君って本当に演技がうまいなぁと関心しながら聞いていました。歌手の方は音程がいいから、台詞が上手なんです。西郷(輝彦)君も三田(明)君もうまかったですよ。
私は監督さんに「この場面はこんな風に撮って」とお願いすることはなかったんですが、この映画でたった一度だけお願いしました。「小雪がガクッと死ぬところを写さないで!」って言ったんです。監督が「どうすればいいんだ?」と聞くから、「舟木君の表情で私が死んだというのが分かるように撮ってほしい」ってお願いして、舟木君に表現してもらって、次のカットで私が死んだところを撮ってもらいました。タイロン・パワーの「愛情物語」を見た時から、いつかやりたいと思っていたんです。
舟木君はクランクインからクランクアップまで、私を小雪だと思ってくれるので、ずっと役になりきれました。本物の若様と小雪になったようで、とても楽しい撮影でした。「ああ、舟木君との相性は世界最強。黄金コンビ」。こんな思いが心の右下奥からフツフツと湧き上がってきました。やっぱり「絶唱」の若様と
小雪は永久に不滅です。
映画に自信を持っていた舟木さんは「主題歌は要りません」と言い張りましたが、「歌手・舟木一夫」を映画に出しているという感覚の日活には絶対必要でした。幸い、市川昭介さんが売り込んできた、イメージにぴったりの作品がありました。当時のコロムビアのディレクター・栗山章さんはすぐに作詞を西條八十さんにお願いして2週間後に出来上がり、8月発売にこぎつけました。
舟木さんのスケジュールは全て自分で調整して映画に全力投球する力の入れようでした。そんな舟木さんの努力が実を結び、映画は大ヒットし、1966年度に公開された日活映画の配収1位を獲得しました。 主題歌も大ヒットし、この年の日本レコード大賞の最優秀歌唱賞に輝きました。
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