舟木一夫と和泉雅子㊤

兵庫県西宮市社家町の「西宮神社」
 

表大門(赤門

 

 きょう1月10日(水)は、毎年恒例になった、兵庫県西宮市社家町の「えびす宮総本社西宮神社」で年男を選ぶ開門神事が行われ、尼崎市の男子大学生(19)が一番福を獲得しました。彼は大学で陸上部に所属しているということです。また、11日(木)は「鏡餅」をみんなで食べる鏡開きの日にあたります。鏡餅は木槌で叩いて割るのが正式で、小さくなった餅は、お雑煮やお汁粉にして食べましょう。 

 

 

 

 さて、2023年後半は“舟木一夫と仲間たち”について書いてきました。2024年も「舟木一夫と篠山紀信」に続く2番手として和泉雅子さんを取り上げます。

 

国際情報社 - 『映画情報』1965年2月号より

 

 舟木さんは和泉さんと計6本の日活映画で共演しています。2人が初めて会ったのは「あゝ青春の胸の血は」(監督・森永健次郎、1964年9月公開)の撮影現場です。和泉さんは会うまでは、舟木さんをテレビの歌謡ショーでしか見ていませんでしたが、「好青年で爽やかな感じは日活にはいないタイプでした」という第一印象を持っています。舟木さんは最も多忙な時期で、「ロケ現場にパッと来たかと思うとパッと帰っちゃう。彼が立ち去った後は、彼があたかもそこにいるふりをして撮っていた」(和泉さん)と言います。

 

あゝ青春の胸の血は

 

 歌がヒットしたら映画になった“歌謡映画”の時代で、日活もこの路線を本格的に始めた頃です。「最初はクリーニング屋さん役でちょこっと出て下さいという感じだったんじゃないかと思います」(和泉さん)。舟木さんも映画出演について「僕は客寄せパンダ」と言っていましたが、和泉さんは「この映画をきっかけに、ちゃんと映画をやりたいと考えるようになったんじゃないでしょうか」と言っています。

 

あゝ青春の胸の血は [EPレコード 7inch]

 

 和泉さんは「私はどの映画も細部まで覚えていないんですが、この映画では戸田(埼玉県)の土手のシーンが出てきて、舟木君がチャリンコ(自転車)で登場したんじゃなかったかしら。6月くらいのロケだったと思いますが、私は土手で風に当たるのが大好きで気持ちが良くて演技するのを忘れちゃったんです。後で両親に『下手くそね。もっと気合を入れてやりなさい』って怒られたことを良く覚えています」と話しています。和泉さんの母親はマネジャーも兼ねていましたから、ほとんどの撮影現場に立ち会っていたと思います。

 

 

 

 2作目は「北国の街」(監督・柳瀬観、1965年3月公開)。長野県と新潟県の県境が舞台で、国鉄飯山線の最終列車が入って来て、和泉さんが舟木さんを見送るシーンで、和泉さんがカメラを背に舟木さんに向かってしゃべるところでしたが、汽車が入ってきた途端に台詞を全て忘れてしまいました。和泉さんは間合いだけは覚えていたため、「舟木君、私、台詞を全部忘れちゃったの。だけど、驚いた顔をしないで。私が“はい、どうぞ”って言うから、私の合図に従って台本通りにしゃべって」と伝えました。舟木さんは顔色一つ変えないで台詞を話しましたが、次の駅で降りて自動車で戻って来て「マコちゃん、ひどいよぉ」と怒りました。当然ですね。

 

北国の街

 

 

 3作目は「高原のお嬢さん」(監督・柳瀬観、1965年12月公開)。和泉さんの記憶では、この映画の衣装はすべて、日活衣装部で仕事をしていた森英恵さんのデザインでした。和泉さんは高橋英樹さんと共演した「刺青一代」(監督・鈴木清順)の撮影と掛け持ちで、蓼科高原で「高原のお嬢さん」の撮影が終わると、夜行列車で「刺青一代」のロケ現場だった青梅まで行って撮影して、また朝に蓼科に戻って来てホームで化粧をした後、ホームに乗り入れていたタクシーに乗って撮影現場に向かったといいいます。当時はタクシーがホームに入っていたんですね。

 

高原のお嬢さん

 

刺青一代

 

 撮影の合間に、舟木さんが和泉さんをモデルにしてやたら写真を撮っていました。和泉さんは「私って、そんなに素敵なのかしら。舟木君は私に気があるんじゃないかと思った」と言います。しかし、その後、雑誌の企画で対談する機会があったため、和泉さんが舟木さんにその話をすると、舟木さんは「当時の雑誌の担当者に頼まれて撮っていたんだよ」と淡々と話しました。「まったくもう、がっかりでしょ」と和泉さん。

 

 ともあれ、当時の舟木さんの映画に賭ける情熱、心意気は凄かったと言います。「撮影所には必ず大学ノートを持って来るの。縦書きの古いノート。見ると、一生懸命台詞を書いている。それで『次の台詞を考えているんだけど、どうやったらいいと思う?』って聞くんです。こっちは考えていないから、答えようがないんです」と和泉さん。当時はリハーサルはなく、全て現場で行うため必然的に熱心になります。とは言っても、日活の女優で舟木さんのようにノートに書いていたのは吉永小百合さんだけだったと言います。

 

 

 次は「哀愁の夜」(監督・西河克己、1966年3月公開)。この映画で和泉さんはオバQのプロデューサー役を演じました。実は、和泉さんがディズニー映画の漫画のライターになりたくて勉強するほど漫画好きでした、女優業が売れてしまったため断念した━という話を知っていた舟木さんが西河監督に「マコちゃんは漫画が大好きだから」と言って決めてくれたと感謝しています。主題歌の「哀愁の夜」は舟木さんも舟木ファンも大好きな歌です。コンサートでの口笛はたまりませんね。

 

哀愁の夜

 

 この映画では、本格的に映画にも取り組んでいた舟木さんはデビュー以来の独特の髪型を変えて弁護士志望の青年の役に臨んでいましたが、和泉さんは全く気づかなかったようです。和泉さんは「鈍感なんです。そんないい加減な私と比べて舟木君はすごかった。歌手で大忙しだったのに、1本1本の映画を大事にしていた。日活と闘って、いい作品を残してくれました」と話します。次回は、舟木さんが日活と全力で戦って撮った「絶唱」について━。            

 

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☆青春賛歌 目次【1】2022年6月~

☆青春賛歌 目次【2】2023年1月~

 

☆青春賛歌 目次【3】2024年1月~