舟木一夫と山内賢㊦

 

悪太郎

 

 山内賢を偲ぶとき、和泉雅子とのことを触れなくてはいけない。この2人は男と女の関係を超越した、山内が言うところの「心友」だと言って間違いない。2人は30本前後の日活映画に共演していると思うが、兵庫県豊岡市の旧制中学を舞台に1963年9月21日に公開された「悪太郎」(鈴木清順監督)の評価が最も高いのではないか。

 

cb11909悪太郎日活写真ニュース 鈴木清順 笠原良三 山内賢 田代みどり 和泉雅子 高峰三枝子 芦田伸介

 

 今東光の自伝小説を映画化したもので、山内演じる紺野東吾は神戸の中学を素行不良で諭旨退学した後、母親の計略で豊岡の中学に転校させられる。和泉は東吾が惹かれる医者の娘・岡村恵美子を演じた。和泉は2人が結ばれるシーンで、清順監督から「ここは乙女が女になるところだから、カメラが寄ったらハラリと泣いてね」と指示され、南田洋子に“ハラリ”を教えてもらったという。

 

 今回は映画の話ではなく、山内と和泉の関係性がよく分かるデュエット曲「二人の銀座」についてお伝えしたい。山内はこの曲までにシングル15曲、和泉は同4曲をリリースしているが、そのうちの1曲が1966年2月に東芝レコードからリリースされたデュエット曲「ユー・アンド・ミー/二人の虹」(作詞・高崎一郎、作編曲・鈴木邦彦)だった。

 

 

 「二人の銀座」を語るには、米国のロックバンドのザ・ベンチャースの来日に時計の針を戻さなければならない。ベンチャーズの初来日は1962年5月、2度目が1965年1月。英国のザ・ビートルズの来日は翌1966年6月だった。世界の2大ロックバンドの来日が日本のポップス、ロックに及ぼした影響ははかり知れず、とりわけベンチャーズはいち早く日本中にエレキ・ブームを巻き起こした。

 

 

 

 ベンチャーズのアルバム「Go With The Ventures」に収められていた1曲が、銀座の夜景からイメージして作曲したという「Ginza Light(銀座の灯)」だった。ベンチャーズはこれを1966年7月10日にシングルリリースし、コーちゃんこと越路吹雪に提供した。ところが、越路は譜面を見て、東芝レコードのディレクターに「これ、私じゃないわ」と言ったそうだ。

 

 

 このディレクターが和泉も担当していたからか。越路は「雅子ちゃんにあげて。彼女は歌が下手で持ち味しかないから、楽器のように歌えるように男性とデュエットしたらいいと思うわ」と、デュエット案まで出した。ディレクターもなるほどと合点がいったようで、すぐに「ユー・アンド・ミー」の山内賢が“相手役”に浮かんだと言う。

 

 越路から譲られた曲でもあり、和泉は山内とのデュエット決まって以来連日、自宅でピアノに向かってレッスンしてレコーディングの日を迎えた。山内と最初は順調に進んでいたが、♪二人の銀座…と歌った途端、「賢ちゃんがうちで練習してきたのと違う歌を歌うんで、びっくりしました」(和泉)。1人で練習していたので、山内がハモっていることに気が付かなかった。

 

 何回も繰り返して合わせようとしても合わない。和泉は悲しくなって、隣の部屋に駆け込んで鍵をかけて1時間以上、声を出して泣き続けて声が出なくなった。スタッフも仕方ないということで、夜の銀座でレコードのジャケット撮りだけしようということになった。怪我の功名で和泉には珍しく哀愁のある表情になったが、「よく見るとちょっと目が赤く写っているんですよ」(和泉)。

 

(EP)和泉雅子 山内 賢/「二人の銀座」「踊りたいわ」 【中古】

 

 2回目のレコーディングは和泉が緊張しすぎて、足がつってスタジオに入れなくなって急きょ中止に。3回目は夏風邪を引いてまたまたダメ。いずれの日もスタッフは全員、スタジオでスタンバイしていた。そんなこんなで4回目にやっとレコーディングにこぎつけたという難産だった。「1小節ずつブツブツに切れていて、張り合わせ張り合わせでやっと出来たレコードなんです」(和泉)ということだ。

 

 

二人の銀座

 

 「二人の銀座」は累計100万枚以上の大ヒット曲になり映画にもなった。ベンチャーズはその後も数多くの歌謡曲を作曲し“ベンチャーズ歌謡”とも呼ばれた。なかでも「二人の銀座」は、「北国の青い空」(奥村チヨ)、「雨の御堂筋」(欧陽菲菲)、「京都の恋」(渚ゆう子)とともに、1970年の第12回日本レコード大賞で企画賞を受賞し、山内&和泉コンビは「二人の銀座」を祝受賞のステージで披露した。

 

奥村チヨ『チヨとベンチャーズ』北国の青い空(Alternertive Version)/京都の恋 [Analog]

 

雨の御堂筋 / 欧陽菲菲 (CD-R) VODL-32776

 

京都の恋

 

 山内&和泉コンビはその後も、「星空の二人」(和泉さんの実弟が作詞&作曲)、「二人の朝(あした)」(作詞・永六輔、作編曲・宮川泰、映画「終りなき生命を」の主題歌)、「東京ナイト」(訳詞・永六輔、映画「東京ナイト」の主題歌)と続いた。そして、山内が肺がんの手術に成功した時、和泉に「今度『おとなの銀座』というCDを作るから協力してほしい」と伝えた。

 

東京ナイト

 

 和泉は「二人の銀座」を再録するものと思っていたら、山内は「全部録り直したい。出来ればキーを下げたい」と言い出したので、和泉は「キーだけは無理」を通した。橋幸夫のスタジオで録音し、リリースされたのが2008年9月24日。山内が亡くなったのが3年後の9月24日で、和泉は後に「不思議なものを感じます」と話していた。

 

 

 山内が亡くなった時、和泉は舟木一夫と山内の関係をよく知っていたから、真っ先に舟木に電話で連絡した。25日に東京都杉並区の和田堀廟所で営まれた通夜にかけつけた舟木は真っ青な顔になっていて、「あんな舟木君を見たのは初めて」だった和泉は、ショックがただ事ではないと感じて「早く帰りなさい」と言って帰したほとだった。

 

 翌26日の告別式には元日活の仲間ら約200人が参列。和泉が弔辞を述べ、「一つ心残りがあるなら、私の力不足で賢ちゃんを紅白(NHK紅白歌合戦)に出すことが出来なかったこと。あの世にはいっぱい先輩がいるから、賢ちゃんが幹事をして、私が逝った時には『二人の銀座』を歌おうよ。また会う日まで、バイバイ」と山内に語り掛けた。和泉らしい弔辞だった。                     (敬称略)

 

 

 

 

★★★

 

 「決定版  舟木一夫の青春賛歌」(産経新聞出版)が発売されています。前著「舟木一夫の青春賛歌」を全面リライトしたうえ、このブログなどの内容を追加してまとめたものです。これまでのシングル全ジャケット写真、芸能生活のあゆみ(オリジナル)など60年のあらゆる記録も収めています。巻頭には舟木さんの最新インタビューも掲載しています。

 

 

 

★★★

 

 

 

 

☆青春賛歌 目次【1】2022年~

☆青春賛歌 目次【2】2023年~