舟木一夫と西郷輝彦㊤
私は2022年6月5日(6月5日は舟木一夫のデビュー日)にこのブログを始めて以来、ずっと舟木のこと、舟木にまつわる方々のことを綴ってきた。そんな中でも西郷輝彦は舟木にとって特別な存在だ。歌手としては後輩にあたる西郷を、親しみを込めて「輝さん」と「さん」付けで呼び、人生の「盟友」と言って憚らない。舟木と同じように“波乱万丈”の人生だった西郷の75年を振り返る―。
西郷は父・今川盛智、母・フサ子の4人の子供(兄2人、姉1人)の末っ子として、1947年2月5日、鹿児島県谷山町(現・鹿児島市)に生まれた。盛揮(せいき)と名付けられた。父親の盛智は鹿児島県出身だが、大きな呉服店の北九州支店を任され“単身赴任”していた。宮崎県の帽子屋の娘として大きな屋敷に住んでいたフサ子宅にも営業で出入りしているうちに恋仲になり、2人は駆け落ちして鹿児島で結婚した。西郷は2人の駆け落ち結婚について、「かっこいい」と言っている。
盛揮少年は鹿児島市立谷山小学校に通っていたが、2年生まで同い年のシンガーソングライター・吉田拓郎(下の写真)も在籍していた。盛揮少年が同小3年(9歳)の時、水泳や自転車、野球などを教わっていた次兄・雅博が熱中症で死亡、市立谷山中学3年(15歳)の時には地元でジャズドラマーとして活動していた長兄・勝晶を釣りボートの転覆事故で亡くす。音楽に興味を持っていた盛揮少年は、長兄から様々な洋楽を聴かされ「一緒にバンドを組もう」と勧めらる。それ以来、盛揮少年は長兄の遺志を生かさなければならないと考えるようになった。
進学した市立鹿児島商業高校ではブラスバンド部に入部。1962年に野球部が夏の甲子園に出場を決めた際、ブラスバンド部の一員として応援のため大阪に行く。順々決勝まで進むが、盛揮少年は試合後に宿舎に戻った後、大阪のジャズ喫茶「ナンバー一番」に出向き、プロの歌や演奏を聴いて「これなら俺にも出来る!」と自信を持った。ある日、神戸の知り合いを頼って家出することを決意。「母さん、行ってくるからね」と告げると、母親の返事は「どこへ行ってもいいけれど、晩御飯までには帰って来るんだよ」だった。本気にしていなかった。
― 鹿児島商業高校 ―
盛揮少年は手元の6000円で西鹿児島駅から汽車で神戸駅まで行くが、頼りにしていた知り合いは勤務先を変えて転居していた。帰るに帰れず、大阪、京都、名古屋のジャズ喫茶で下働きをしているうち、松島アキラらが所属していた竜巳プロダクションの相澤秀禎にスカウトされ、相澤宅に居候する。ある時、東京・浅草のジャズ喫茶「新世界」で歌い終えた時、コロムビアレコードの長田幸治に呼ばれ「レコードを出してみないか」と声をかけられる。長田はコロムビアから枝分かれするクラウンレコードの新人を発掘しているところだった。
盛揮少年が「どういう曲を歌うんですか」と聞くと、長田さんは「今、舟木一夫っていう歌手が凄い人気だろう。あの路線で君らしいものを歌ってほしいんだな」。「いや、それはちょっと…。今みたいにロックを歌いたいんです」。「一発当てれば、あとは君の好きなようにやれるから」。という流れで、17歳の1964年2月15日、クラウンレコードの新人歌手第1号として「君だけを/ひとりぽっち」(作詞・水島哲、作曲・北原じゅん)でデビュー。たちまち60万枚の大ヒットになった。芸名の「西郷」はもちろん、郷土の英雄・西郷隆盛から拝借したものだ。
西郷は「君だけを」と「十七才のこの胸に」で日本レコード大賞新人賞を受賞。女性は「アンコ椿は恋の花」が大ヒットしたコロムビアレコードの都はるみだった。西郷は授賞式に出たその足で第15回NHK紅白歌合戦にも「十七才のこの胸に」で初出場した。デビュー当時のニックネームは「太陽の王子」だったが、そういうことには関心が薄かった西郷にしてみれば“迷惑な命名”だったのではないか。
西郷は男前の顔、抜群のスタイルも手伝って、出す歌出す曲が相次いで大ヒット。やがて橋幸夫、舟木とともに「御三家」と呼ばれるようになる。西郷は自身のヒット曲の中でも一番納得していたのが1966年7月1日発売の「星のフラメンコ」(作詞&作曲・浜口蔵之助)だった。浜口らスタッフとスペイン・マドリードで4日間、本場の劇場でフラメンコを見続け、帰国後に浜口が一気に書き上げた曲だった。西郷は後に「今までにない歌謡曲で、絶対売れると思った」と語っている。
しかし、西郷は大ヒット曲を出した歌手の誰もが陥るように、やがて「自分がどこに立っているのか分からなくなり、人前に出るのが怖くなってきました」。阿久悠や村井邦彦らと出会って“自分の音楽”の方向が見えてきたものの、グループサウンズの台頭などで存在感が薄れていった。第15回から第24回まで連続10年出場してきたNHK紅白歌合戦も落選。西郷はたまらなく悔しくて、「紅白は自分から降りたんだ」と自分に言い聞かせていたという。
舟木は十数年の“寒い時代”の中でも、アルバム「WHITE」をリリースするなど“歌手”を忘れることはなかったが、西郷は大転身する。1972年2月に大阪・梅田コマ劇場で1か月公演を行った際、芝居「おけら火」の脚本を劇作家の花登筐が書いたが、西郷の演技を見た花登はいたく感心し、自ら書き上げた「どてらい男(やつ)」の原作本を持ってきて、「主人公の山下猛造をやってみないか?」と声を掛ける。これが転身のきっかけだった。
ところで、1972年2月と言えば、西郷が両親の猛反対を押し切って、ドラマで知り合った辺見マリと結婚した年。ここにも西郷の心機一転の覚悟が見える。2人は娘1人(タレントの辺見えみり)、息子1人(ミュージシャンの辺見鑑考)をもうけるが、1981年に離婚。西郷は1990年に事務所に勤務していた19歳下の明子と再婚し、3人の娘(1人は女優でイラストレーターの今川宇宙)に恵まれた。結果、計5人の娘、息子の父親になった。
話を戻す。西郷は花登との巡り合いについて、「花登筐先生と出会い、関西テレビ系で『どてらい男』をやらせていただいたのは渡りに船という感じでしたね。その頃はもう自分は役者だという感覚でいましたから、音楽番組にはほとんど出なくなっていたんです」と、私のインタビューに答えていた。軸足を歌手から役者に移しつつあった時だった。だから、“渡りに船”という言葉を使ったのが印象的だった。
西郷は周囲の反対を押し切り、頭を丸刈りにして挑戦した。「どてらい男」は1973年から1977年まで放送され、最高視聴率は35.2%だった。1974年以降は東京、大阪、名古屋で舞台化されるが、またまた“運命の人”に出会う。大阪・梅田コマ劇場で「どてらい男」を上演していたところ、次の舞台の稽古をしていた大先輩の俳優・森繁久彌から「変なやつがいるぞ」と興味を持たれ、「いっぺん俺の芝居を見に来なさい」と声をかけらた。
西郷は言われた通り、名古屋で行われていた森繁の公演「浪速の花道-曾我廼家五郎・十郎物語-」を観に行くが、森繁の演技に圧倒され、「俺は何をしていたんだ。これが芝居だ」「俺はもう恥ずかしくて芝居なんか出来ない」と思い、すぐに森繁が宿泊していたホテルまで出向き、「僕を森繁さんの舞台に出してくれませんか」とお願いしたという。森繁は最初はウンとは言わなかったが、西郷のあまりの熱意に押され、ついに了承して“森繁ファミリー”の一員に迎え入れた。西郷はそこで「演技」を叩き込まれることになった。
森繁の教えもあって、「役者・西郷輝彦」が高く評価されるようになる。その後、TBS系の「江戸を斬るⅡ」で遠山金四郎役に抜擢されてからは、「声も完全に芝居役者に仕立てていきました」と西郷。この時代劇で京都映画祭新人賞を受賞。第4シリーズの初回には最高視聴率36.7%を獲得。結局、1975年11月から1976年5月まで続くことになり、西郷の代表作の一つになった。
どっぷり芝居にはまり込んでしまった西郷。もう歌手には戻ってこないと思われていたが……。 (敬称略)
― 鹿児島の県花・ミヤマキリシマ ー
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