舟木一夫と橋幸夫㊦

 

 1966年の年末の最大の関心事は第8回日本レコード大賞の賞レースだった。今とは違って、当時のレコード大賞は大晦日に放送され、NHK紅白歌合戦に匹敵するほどの重みがあった。レコード大賞は民放(TBS)の放送にもかかわらず、受賞歌手は紅白歌合戦で歌う前に必ず受賞内容を紹介されていた。この年は最終的に大賞を目指して加山雄三の「君といつまでも」(東芝)、舟木一夫の「絶唱」(コロムビア)、橋幸夫の「霧氷」(ビクター)がデッドヒートを繰り広げていた。

 

【EP】加山雄三「 君といつまでも/夜空の星」【検聴済】

 

 

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 「君といつまでも」(作詞・岩谷時子、作曲・弾厚作)はエレキギターブームの最中だった1965年12月5日に発売された後、19日公開の東宝映画「エレキの若大将」(岩内克己監督)の主題歌として使われ、300万枚を超える大ヒットになり、快進撃を続けていた。また、「絶唱」(作詞・西條八十、作曲・市川昭介)は1966年8月5日に発売され、9月11日公開の日活映画「絶唱」(西河克己監督)の主題歌になり、映画もその年の日活映画の配収1位になる大ヒット作になって盛り上がっていた。

 

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 そんな中、「霧氷」(作詞・宮川哲夫、作曲・利根一郎)が遅れて10月5日に発売され、それなりにヒットしたが、直前まで本命視する関係者はいなかった。しかし、審査員の投票の結果は「霧氷」16票、「君といつまでも」12票、「絶唱」6票となり、決選投票の結果、「霧氷」が23票に対して「君といつまでも」が16票になり、「霧氷」が大賞に決定した。「君といつまでも」は特別賞、「絶唱」は歌唱賞を受賞した。スポーツ紙や週刊誌などでは“黒い噂”まで飛び交った。

 

 橋はこの年、𠮷田正から「しばらく俺は引いて他の作家に書かせる」と言われて初めての曲「雨の中の二人」(作詞・宮川哲夫、作曲・利根一郎)を1月15日に発売している。売れ行きも良く評判のいい曲で、橋自身も思い入れが強く、“幻のレコード大賞”とも語っている。しかし、ビクターの営業部門の判断で、レコード大賞への狙いは「雨の中の二人」から「霧氷」に舵(かじ)を切り、“力業(ちからわざ)”でレコード大賞を獲得したのではないかと言われている。

 

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 この年の第17回NHK紅白歌合戦では、事前に発表されていたのかどうか記憶は定かではないが、13番目に橋の「霧氷」、15番目に加山の「君といつまでも」、その間に挟まれる形で14番目に舟木の「絶唱」が配置されるという“微妙な順番”になった。もっとも、結果的に歌唱賞を受賞した舟木は、それまでにフランク永井、美空ひばり、三橋美智也、越路吹雪ら大先輩が受賞していた大きな賞だったため、これが“重荷”となってしばらく苦しむことになった。

 

 「先輩を差し置いて与えられたことで、、歌に対するプレッシャーがものすごく重くのしかかってきた。賞に恥じないように歌おうという気持ちが、逆に歌を上手くまとめて歌ってしまう形になり、しばらくの間、歌がグシャグシャになってしまった。受賞して良かったという気持ちと、自分の歌が崩れ始めるきっかけになった曲ということで複雑なものがある」

 

第17回紅白歌合戦

 

 「御三家」についても面白い話がある。三田明に聞いた話。玉置宏がある時、TBS系の「ロッテ歌のアルバム」の田中敦ディレクターと一緒に舟木、西郷、三田の3人で「御三家」を作ろうという話になり、コロムビア、クラウン、ビクターの関係者に打診した。ところが、ビクターから「そういう話なら橋幸夫でやりたい」という提案が出され、橋、舟木、西郷の3人による「御三家」が誕生。これに三田を加えた「四天王」が生まれたということだ。

近代映画1968年臨時増刊号歌謡ビッグ4 舟木一夫橋幸夫西郷輝彦三田明

 

近代映画1968年臨時増刊号歌謡ビッグ4 舟木一夫橋幸夫西郷輝彦三田明

 

「近代映画」1968年臨時増刊号歌謡ビッグ4 舟木一夫/橋幸夫/西郷輝彦/三田明

 

「近代映画」1968年臨時増刊号歌謡ビッグ4 舟木一夫/橋幸夫/西郷輝彦/三田明

 

近代映画1968年臨時増刊号歌謡ビッグ4 舟木一夫橋幸夫西郷輝彦三田明

 

 御三家と紅白歌合戦についても書いておく。3人が揃って紅白のステージに立ったのは西郷が初出場した第15回から第22回までの計8回で、最初に落選したのは舟木。12月には大阪・新歌舞伎座で「芸能生活10周年特別公演」で座長を務めていたが、前年の紅白で“最後のヒット曲”「初恋」を歌い切ったこと、“若気の至り”の行為があったことが致命的だった。気力、体力ともに減退しつつあった舟木は「最初に落選するのは僕だと分かっていました」と話していた。

 

舟木一夫「初恋 cw あなたの故郷」 CD-R

 

 続いて落選したのが10年連続出場の西郷。西郷の落選について、舟木は「格別な思いはなかった」と語っているが、橋の時は違った。朝、寝ぼけ眼でスポーツ紙を広げたら、紅白出場歌手の一覧表に「橋さんの名前がない!?」。舟木さんは目から涙が溢れてきた。ベッドの上でひとり号泣した。橋そのものの落選ではなく、橋が落選することで御三家が共有してきた“ひと塊の青春”が一瞬にして消え去っていくことへの悔しさ、御三家の歌を口ずさみ一緒に歩いてきてくれたお客さまにも申し訳ない。そんな思いが涙になって止まらなかったと言う。

 

 

 紅白歌合戦にはまだ話があって、舟木が21年ぶりに復活した第43回紅白歌合戦を母親と一緒にテレビで見ていた西郷は、10番目に舟木さんが出て「高校三年生」を歌い始めると「嬉しくて嬉しくてポロポロ涙を流していました」。横にいた母親が「あんたもちゃんとやらないとダメだよって怒るんですよ」。西郷は押しも押されもしない役者・西郷に“転身”していたが、母親は歌手・西郷の姿をもう一度見たかったのでしょう。それが転機の曲「別れの条件」に繋がっていった。

 

― 第43回紅白歌合戦 NHK(1992年/平成4年) ―

 

 

 舟木はその後、2001年に御三家揃って全国130か所で「G3Kメモリアルコンサート」、2011年と2014年には西郷、三田と「BIG3スペシャルコンサート」を開いているが、先輩・橋とは違って、楽屋での舟木と西郷は何のてらい、遠慮もなくおしゃべりに花を咲かせていたのが印象に残っている。これらのコンサートを通じて舟木と西郷は「盟友」と呼ばれる関係になって行ったのではないか。

 

 

「御三家メモリアルコンサート」で共演を発表する(左から)舟木一夫さん、橋幸夫さん、西郷輝彦さん=2000年6月、東京都内のホテル

「御三家メモリアルコンサート」で共演を発表する(左から)舟木一夫、橋幸夫、西郷輝彦=2000年6月、東京都内のホテル 西日本新聞より

 

 

 

 

 

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 「決定版  舟木一夫の青春賛歌」(産経新聞出版)が11月28日に出版されます。前著「舟木一夫の青春賛歌」を全面リライトしたうえ、このブログなどの内容を追加してまとめたものです。これまでのシングル全ジャケット写真、芸能生活のあゆみ(オリジナル)など60年のあらゆる記録も収めています。巻頭には舟木さんの最新インタビューも掲載しています。

 

 

 

 

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