舟木一夫と共に㊲
BIG3について㊦
当時のレコード会社の競争には凄まじいものがあった。日本ビクターの橋幸夫の「潮来笠」の大ヒットを見た日本コロムビアは「向こうが“ハシ”ならこっちは真ん中を渡ろう」と中尾渉(なかおわたる)で売り出そうとしたが失敗。その後に上田成幸(舟木一夫の本名)に出会った作曲家・遠藤実が、橋に果たせなかった自らの夢を上田少年に賭けて「高校三年生」でデビューさせることになった。日本ビクターは「ウチも舟木のような青春歌謡で対抗しよう」ということで三田明を発掘する。三田が詳しく話してくれたので紹介する。
三田は8人兄妹の末っ子で本名は辻川潮。私立八王子中学校の生徒の時に担任の先生の勧めで音楽同好会を作った。文化祭のステージで歌っていると、会場の女生徒から大歓声が挙がるほどの人気で、三田の兄が勝手に応募した「ホイホイ・ミュージックスクール」に合格。東洋企画プロダクションに所属しながら、ジャズ喫茶「銀座ABC」で歌の勉強をした。写真家・秋山庄太郎から「日本一の美少年」と呼ばれ、三島由紀夫も三田のファンだったと言われている。
―1968年1月5日発行の漫画「虹のスカイ・ライン 三田明ものがたり」 ―
私立八王子高校1年だった1963年5月ごろ、コロムビアから舟木が6月5日にデビューするのを事前に察知したビクターが舟木に対抗する歌手を本格的に探し始めた。ところが、「高校三年生」がいきなり大ヒットしたものだから、三田は急きょ東京・築地のビクタースタジオに来るよう呼び出され、すぐにオーディションを受け、2日後に作曲家・𠮷田正と面会した。その席でビクターとの専属契約を結び、9月にレコーディング、10月にテビューすることが決まったという。
その時、すでに学習研究社の月刊誌「美しい十代」とのコラボレーション企画として作曲・𠮷田、作詞・宮川哲夫によるデビュー曲「美しい十代」が決まっていた。三田は7月後半から8月までの約2週間、吉田宅に通いつめ応接室の隣のレッスン室のピアノの左横で猛特訓を受けた。「素人に毛が生えた程度の僕は譜面も全く読めませんでしたから、とにかく先生がピアノを弾きながら歌って下さるのをそのまま覚えていました」。分からない部分があると、吉田が譜面の音符の下に赤鉛筆で書き込んで教えてくれた。
― His Master's Voiceのモデルとなったニッパー ―
コロムビアの“内紛”で独立した日本クラウンの新人専属歌手第1号になったのが西郷輝彦。西郷は歌手を目指して鹿児島商業高校在学中に家出。京阪神地区のジャズ喫茶を転々とした後、東京・浅草のジャズ喫茶で歌っているところをクラウン立ち上げの準備をしていたディレクター・長田幸治にスカウトされた。西郷の著書「生き方下手」(KKロングセラーズ、上の写真)によると、今川盛揮(西郷の本名)が長田にどんな歌を歌うのかと聞くと、長田は「今、舟木一夫がすごい人気だろう。あの路線で君らしいものを歌ってほしい」と答えた。
今川がさらに「いや、それはちょっと…。やっぱり今みたいにロックを歌っていたい」と言うと、長田は「大丈夫だよ。一発当てれば、あとは君の好きなようにやれるから」と流された。西郷から直接聞いた話では、ヒット曲連発後まもなく、「自分がどこに立っているのか分からなくなり、人前に出るのが怖くなってきた」。
その後、森繁久彌らに見いだされて役者に転身した。以前にも紹介したように、舟木が21年ぶりにNHK紅白歌合戦で「高校三年生」を歌っているのを見て、再び歌手への転機の曲「別れの条件」を出すことになった。 (敬称略)
― どてらい男 関西テレビ放送 ―
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