仙台市の都市風景

舟木一夫と共に㉘

出会いから結婚まで

 舟木一夫は1967年元日から久しぶりにハワイで休暇を楽しんだ。ところが、15日に急性肺炎で急きょ帰国して20日まで入院した。この頃の舟木は大病に至らないまでも何回か入退院している。退院5日後には京都・南座で「日本レコード大賞・最優秀歌唱賞受賞記念公演」を行い、2月には東映京都撮影所藤純子里見浩太郎らと「一心太助 江戸っ子祭り」の撮影に入るという慌ただしさだった。撮影所では連日、トイレに長蛇の列ができ社員食堂もファンに“占拠”され売り切れ続出という珍現象が起きた。

 

一心太助 江戸っ子祭り ジャケット画像

― 東映ビデオオフィシャルサイトより ―

 

 舟木はこの忙しい中の1月か2月に宮城県仙台市で公演を行っている。公演後、舟木は劇場の食堂で仙台地区の後援会員と茶話会を開いた。舟木と、マネジャー、バンドリーダーのチャーリー脇野の3人がヒナ壇に並び、その前に後援会員が座った。お茶を飲みケーキを食べながら舟木が会員の質問に答えるという形式。その中に後援会員に連れられてきた中学3年の女生徒がいた。チャーリーのはす向かいでうつ向き加減にしていた。

 

― チャーリー脇野のサイン ―

 

 舟木は話したこともなく名前も年齢も知らなかったが、隣のチャーリーの耳元で「はす向かいに座っているあの子、僕はあの子と結婚するかもしれない」とささやいた。チャーリーは妙なことを言うやつだという顔をしながらも、「ああ、いい子みたいだね」とだけ答えた。その後、舟木もチャーリーも2人の間でそんな会話があったことをすっかり忘れていた。それはそうだろう。一目見ただけで「結婚しそうだ」なんて信じる人はいない。

 

 ところが翌年7月、舟木は東京・明治座で1か月の座長公演を行っていた(下の写真)。彼女は夏休みを利用して父方の墓参りのため上京した際、東京の知り合いの後援会員と一緒に昼の部の「坊っちゃん」を観に来た。終演後、知人の後援会員とともに会の世話人の案内で楽屋に顔を出した。彼女たちが楽屋を出ていくとすぐ、舟木はチャーリーに「覚えてる?」と尋ねた。チャーリーが怪訝な顔をしていると、「去年の仙台公演で僕が結婚するかもって言った子だよ」と伝えた。チャーリーは「冗談でしょう」と笑った。

 

 

 舟木はこの時初めて、彼女の名前が松沢紀子で仙台市に住む高校1年生であることを知った。その3年後、盛岡公演があった時、彼女は宮城学院女子大学の学生になっていたが、仙台の後援会を通して彼女に連絡を取った。舟木は公演後の休みを使って彼女の自宅を訪ね、初対面の両親に「結婚を前提にお付き合いさせてください」と申し入れた。サラリーマンの父親は突然のことで驚いたが、彼女の意思を尊重して交際を許可した。その後は仕事の合間を見てデートを重ね、東京でのデートの時は母親同伴だった。

 

ホテルオークラ東京 1962年完成の旧本館 Wikipediaより

 

 “若気の至り”の行為があった翌年の1973年5月には急性胆嚢炎で慶応病院に入院。退院して1か月後の7月7日、舟木は東京・ホテルオークラで記者会見し、仙台市在住の会社員の次女・松沢紀子(21歳)=宮城学院女子大4年=との婚約を発表した。舟木は28歳。2人は3月に婚約、4月に結納を交わし、結婚式は翌年1月17日に東京・永田町の日枝神社で、NHK大河ドラマ「春の坂道」で縁が出来た作家・山岡荘八夫妻の媒酌で行うことになった。のちに舟木は「婚約発表で大人になった実感を味わった」と話している。

 

赤坂 日枝神社

 

 それからわずか3か月後の10月29日、舟木は再び“若気の至り”の行為を起こした。正気に戻った舟木は父・栄吉に松沢宅への使者を頼み、「婚約をいったん白紙に戻し、後はご家族の判断に従いたい」という意思を伝えてもらった。婚約破棄は覚悟していたが、1か月後、「家族会議の結果、紀子がどうしても嫁に行きたいと言っているので、お引き受け願えますか」という連絡があった。舟木は紀子に確認のうえ、結婚式の予定を変更して1974年4月に簡素な形で行うことにした。

 

イメージ

 

 挙式・披露宴は4月29日、東京・六本木のTSK・CCCターミナルで山岡夫妻の媒

酌で行われた。内輪だけの形にしようと、招待客は作曲家・遠藤実、作詞家・丘灯至夫、俳優・山内賢ら本当に親しい人だけに絞った。新郎新婦が離席している間、山岡夫妻が各テーブルを周り、「舟木夫妻をよろしくお願いします」と挨拶して回ったという。下は結婚式の模様を報じた4月30日付のサンケイスポーツ。

 

 

 舟木は紀子のことを「嫁さん」と呼んでいる。舟木は結婚以来、ギャラの7割を嫁さんに渡し、使途については全て任せるが逆に自分の仕事には一切口を出さないという不文律を作った。しかし“寒い時代”には年収300万円以下という年もあった。賃貸マンションの家賃が25万円前後という時もあったから、紀子はどうやりくりしていたのだろうか。

 

 

 そんな中で1988年4月から仙台放送の情報番組「ルック!202」(毎週土曜日)の司会を始めている。「仙台に縁があり、無名でない人」という条件に合致しているから選ばれた。紀子が仙台出身であることを調べて連絡してきたという。紀子の“陰の力“といっていい。舟木が今日あるのはおきゃくさんもさることながら、紀子の支えがあったからこそだと思う。

 

仙台城跡 伊達政宗騎馬像

 

 

 

 

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