舟木一夫と共に㉔
抒情歌「夕笛」
1967年8月5日、舟木一夫の代表的な歌である「夕笛」(作詞・西條八十、作曲・船村徹)がリリースされた。舟木はこの曲と「絶唱」、「初恋」を抒情歌3部作として、今でも必ずと言っていいほどステージに乗せている。作詞を依頼していた西條から最初に届けられた詞のタイトルは「ふるさとの笛」だった。舟木はすでに日活の監督・西河克己に映画化の話を伝えていたため、直感的にこれは映画のタイトルになじまないと判断。早速、西條に「変えていいでしょうか?」と持ち掛け、同時に「夕笛」案を持ち出した。
西條は快く承諾し、詞の中にも“夕笛”という言葉を追加してくれた。作曲した船村の気合も入っていた。舟木によると、8小節のメロディーが7回繰り返され、アレンジも淡々としている難しい曲。舟木が船村にそのことを伝えると「そこを上手くやるのがプロでしょう」と素っ気なく言われた。船村はそれぞれの歌手の声質を考え、その歌手に最も相応しい歌を作る名手。舟木にとっては「この時期の歌としては最も苦労した曲」だったが、船村は「西條先生の初恋の思い出を歌った叙情豊かなロマン歌謡。舟木君は詞曲の味を十二分に歌に表現して満足させてくれた」と評した。
ところが、発売してまもなくスキャンダルが発生した。「夕笛」の詞は西條、北原白秋と並ぶ三大詩人の一人、三木露風の「ふるさとの」の盗作だという報道がマスコミで流されたのだ。盗作呼ばわりされながら、西條は当時一切発言をしなかった。ところが、ちょうど1年後に雑誌で反論した。西條によると、日本コロムビアの依頼で流行歌の作詞を始めることになった時、先輩の三木に「僕は『ふるさとの』の詩が大好きです。いつかこれをベースに流行歌を作っていいですか?」と尋ねたら快諾してくれた。それを「夕笛」に生かして作詞した——ということが明らかになった。
西條は舟木に「君が歌う『絶唱』を聴いた時、三木さんと約束したことを思い出して『夕笛』を作ったんだ」と説明した。舟木は盗作問題が起きた時には一言も発せず、1年後にマスコミ報道を論破したところに「大詩人のバランスの取れたインテリジェンスを感じた」という。この時、西條75歳、舟木22歳。2人には50歳以上の年の差を感じさせない信頼関係が出来上がっていた。歴史社会学者の筒井清忠は著書「西條八十」(中公叢書)の中で次のように述べている。
西條は「花咲く乙女たち」にみられるように「生涯この喪失感の悲哀美を歌い続けた詩人」であり、舟木の「絶唱」を通して「『純愛』の“死に水”をとりつつあった」。そして「夕笛」で「初恋の傷心をうたう地点にもどったところが八十の最後のヒット曲となった地点であった。それを最後の抒情派歌手舟木一夫が歌ったわけである」
芸術祭参加作品として9月23日に公開された映画「夕笛」は、昭和初期に北陸の城下町の“椿屋敷”に住む「若菜(松原智恵子)」と没落階級の子弟「雄作(舟木)」との悲恋物語。撮影は8月10日の北陸ロケからスタートし、彦根ロケでは35度の猛暑の中、舟木と松原のキスシーンが撮られた。遠巻きに見守る約500人のファンの中に名古屋から駆け付けた松原の母と姉の姿もあったが、松原は「遠く離れて見ていたので、気にはなりませんでしたよ」と淡々と話した。
― 彦根城 ―
舟木が「松原智恵子の美しさが際立っていた映画」と評する「夕笛」はこの年に公開された日活映画の全作品の中で配収1位に輝いた。そのことを約40年後に行ったインタビューで松原に伝えると、「えっ、配収1位だったんですか!?」と初めて知った驚きを隠さず、「そういえば、そのころ(日活の)堀(久作)社長に呼ばれて『よく頑張ったね』って、お小遣いをいただきましたわ」といかにも松原らしく語ってくれた。恐らく堀は1位になったことを松原に丁寧に説明したうえで小遣いを渡したのだろうが、松原にとって1番とか2番ということは大した重大事ではなかったんでしょうね。
― 松原智恵子のサイン ―
「夕笛」はその後、“寒い時代”から目を覚ますきっかけになるなど様々な場面で登場してくることになる。
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1966年8月から日本テレビで放送された連続ドラマ「雨の中に消えて」で舟木と松原が共演することが分かると、テレビ局に「松原さんを西郷(輝彦)さんのところへ帰して」という内容の投書が多数寄せられた。西郷と松原はすでに3本の映画で共演していて西郷&松原のコンビが定着しつつあったので、舟木ファンにしてみれば「松原さんを舟木さんに近づけないで!!」ということだった。
(敬称略)
※「舟木一夫と共に」は以前掲載したものに若干手を入れて再掲載しています。
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