舟木一夫と共に㉓

その人は昔㊦

こころのステレオ その人は昔―東京の空の下で

 

 私はLP「その人は昔」に携わったメンバーのうち、LPで重要な役割を果たしている効果音を担当したレコーディング・エンジニア(録音技師)の飯田馨にインタビューすることが出来た。飯田は「テレビもラジオもステレオ化されていなかったので、ステレオ効果音を盛り込んだレコードを作ろうということになりました。出来上がった松山(善三)先生の台本を手に、真夏に北海道・襟裳岬とその周辺に出かけ、ディレクターら5人でサウンドロケ(サウンドハンティング)を行いました」と話してくれた。

 

― 襟裳岬 空撮 ―

 

 飯田はデンスケ(携帯用録音機)とステレオマイクを持参。レンタカー店でマイクロバスを借りて地図を片手にそれぞれの目的地に向かった。一番怖かったのは襟裳岬の断崖絶壁から身を乗り出して波の音を録った時だが、この崖で録るしかなかった。このロケでは話上手な栗山があちこちで活躍したという。船長に交渉して汽笛を鳴らしてもらったり、駅長にお願いして駅で汽車を走らせてもらったり、地元選出の代議士が経営する牧場で馬を走らせてもらったり…。結構無茶ぶりをしたんでしょうね。そうこうしながら1週間かけて録音した。

 

日高静内の風景

 

 

 

 

 録音技師はディレクターの指示で動くものだが、この時はディレクター、アシスタントディレクターらスタッフ全員が日本コロムビアの専属だったため、息はぴったりで「社員感覚で仕事をしていたのでチームワークは抜群でした」(飯田)。東京に戻ってからは毎晩遅くまでホテルに缶詰め状態になって仕上げの作業が続いた。飯田は後日、東京・祖師谷の舟木邸に2歳の長男を連れて挨拶に行った際、舟木から「お疲れさまでした」と言って1m以上あった馬のぬいぐるみを長男にプレゼントしてもらったことが強く印象に残っているという。

 

 

 舟木はレコーディング本番では約70人のオーケストラと40人の合唱団をバックに歌った。指揮は船村徹が行った。舟木の相手役に女優・松本典子、その歌声を浜百合子、そして朗読を重鎮・宇野重吉が務めた。注目されるのは、「ヨーロッパ・静止した時間」を発表したばかりの新進写真家・奈良原一高がジャケット写真のほか、物語の舞台になる東京、北海道でロケ撮影した計44ページにわたる“写真集”の制作にも携わっていることだ。船村はコロシート「歌のプリンス舟木一夫」に次のように記している。

 

「歌とナレーションと音楽で構成された、新しいミュージカル的なレコード。舟木君は私が作曲したバラエティーに富んだ歌に、ひた向きに取り組みベストを尽くしてくれた。出来上がりは私が期待した以上で、LPレコードとしては画期的なヒットになった。3か月の労作で疲れたが、快い疲労だった」

 

こころのステレオ その人は昔―東京の空の下で

 

 アルバムが大ヒットしたため映画化の話が相次いだが、配給は松山が所属する東京映画に決まった。相手役には連続テレビドラマ「氷点」のヒロインや「あこがれ」「お嫁においで」「伊豆の踊子」などの映画にも出演していた内藤洋子が抜擢された。ロケは1967年5月からスタート。松山は「フランスの名画『シェルブールの雨傘』のような映画を狙った」と語ったが、その言葉通り、上映1時間半のうち50分が音楽という作品になった。舞台美術家・朝倉摂はこの作品で初めて劇映画の美術を担当した。

その人は昔 [VHS]

― 昭和42年東京映画製作「その人は昔」の予告編 ―

 

 挿入歌にもなった内藤の歌について船村に聞いた。「彼女はこの映画で初めて『白馬のルンナ』などを歌いました。彼女の自宅が鎌倉だったので、私が自宅(藤沢)にいる時は寄りなさいと言ってレッスンしました。彼女のお父さんがお医者さんだったので、あなたは私の患者として言うことをよく聞きなさいって言ったのを覚えています。そうは言っても彼女は音を伸ばすと狂っちゃうんで、ブツ切りのような歌にしましたところ、これが成功したんですね」。なるほど(笑)。

 

 

 

 7月1日に公開されると映画も大ヒット。7日からは東京サンケイホールで、メモリアルコンサート「その人は昔」が上演された(下は台本)。レコード→映画→舞台と理想的な展開だった。仕掛け人はもちろん栗山だった。その後、1971年7月号の「別冊少年ジャンプ」で、梶原一騎原作の「愛と誠」の劇画でも知られる漫画家・ながやす巧が同じタイトルで漫画化した。ながやすは18歳の時に映画館で「その人は昔」を何度も観て何度も泣いていたという。

 

 

 

 私はこの映画を語る際に松山善三の“証言”が絶対に欠かせないと思い、インタビューのお願いをした。養女の方からご丁寧な手紙が届いた。松山は高齢でインタビューに応えられないという内容だった。松山はそれから4年後の2016年8月27日、老衰のために亡くなった。91歳だった。松山には優れた作品が数多くあるが、私は「その人は昔」は代表作の上位に挙げたいと思う。

 

高峰秀子が愛した男

 

 内藤洋子は1970年に音楽家・喜多嶋修と結婚後、芸能界を引退して米国に移住。2004年から喜多嶋洋子の名前で絵本作家としてデビューし、「天使の羽音」や「おひさまにだっこ」などを出版している。なかなかいい作品だ。一男二女のうち長女の喜多嶋舞はいろいろお騒がせな女優だったが……。

                                  (敬称略)

 

天使の羽音 山鳩からの贈り物

 

おひさまにだっこ