舟木一夫と共に㉒

その人は昔㊤

その人は昔<東宝DVD名作セレクション>

 

 私は舟木一夫の楽曲の中でも最高傑作だと思っている。“こころのステレオ”と銘打って1966年11月10日に発売されたアルバム「その人は昔~東京の空の下で~」だ。舟木にとっても歌謡界にとってもエポックメーキング的なLPレコードだった。今回はこのLPが出来るまでの背景について記してみたい。夕刊フジで「舟木一夫の青春賛歌」を連載するにあたって、日本コロムビアのディレクター・栗山章が発想の原点、北海道まで行って現地で録音した経緯などを詳しく教えてくれた。

 

 

 

 栗山は舟木一夫という歌手と仕事をしているうちに、「30センチLPレコードはA面B面合わせて1時間の音楽を収録できる。そこへシングル12曲をトコロテンみたいに並べて押し込むのはもったいない。テレビドラマやラジオドラマがあるようにレコードから生まれる音楽劇(ミュージカル)があってもいいじゃないか」と考えるようになった。1時間あれば短編映画が1本撮れるとも考えた。いかにも文学青年だった栗山らしい発想だ。同時にこれは舟木にしか出来ない芸当だとも考えたのだろう。

 

松山善三と高峰秀子

 

船村徹 コロンビアオフィシャルサイトより

 

 栗山の仕事は速い。アルバム制作にあたり、作詞は「叙情を書かすならこの人をおいて他にいない」と栗山が太鼓判を押す映画監督&脚本家・松山善三、作曲は「頑固なほど自分のスタイルを変えない」という作曲家・船村徹と決め、3月に会社に提案。5月に正式決定したのを受け松山に説明して、同じ字数の繰り返しではない散文形式の言葉による物語を依頼した。歌の作詞は初めてだった松山は「なぜ僕に?」と思ったが、3回書き直して「思い通りに出来上がった」と満足した。自信作だとも思った。栗山の思惑通りだった。

 

― 襟裳岬 ―

 

   北海道・襟裳岬近くの漁村に住む貧しい家庭の青年男女が東京に夢を見て上京するが、都会の厭らしさ夢破れた彼女は自ら命を絶ち、何の救いの手も差し伸べられなかった彼は傷心して故郷に戻る……という悲恋物語。松山は松竹大船撮影所で映画監督・木下恵介の門下生として脚本を学び、女優・高峰秀子と結婚後の1961年に公開された「名もなく貧しく美しく」で監督デビューした。この悲恋物語は松山自身がかつて北海道を周遊した際、襟裳岬に近い百人浜の美しさに魅了されたのが“原風景”になっている。

 

名もなく貧しく美しく [ 高峰秀子 ]

 

  

 

 松山の膨大な“台本”を見た船村は「これでは週刊誌の記事に曲を付けていくようなものじゃないか」と驚いた。しかし、この作品に情熱を燃やしている栗山から「1分間の短いメロディーしか書けないのは作家として落第です」とまで言われたこともあって、「とにかく初めての仕事でしたから、成功させれば後にも続くことになると思いましたし、何より松山さんに刺激されましたからね」と大仕事に取り組んだ。松山の“台本”に圧倒された船村も歌謡、民謡、ジャズなどあらゆるジャンルの音楽を取り入れた。モノ作りとしての意地もあった。

 

 

 舟木は5月3日から9日まで、ゲストに和泉雅子を迎えて東京・浅草国際劇場で「舟木一夫ショー」を開催。ショーも後半になっていて疲れ切ってホテルに帰りフロントでキーをもらうと、同時に小包を渡された。差出人は栗山。部屋に入って包みを開けると自分が歌う譜面など75枚と完成台本が入っていた。さすがの舟木も「広辞苑2冊分ほどの重さだった。今までにない仕事になるということは栗山ディレクターから聞いていたが、こんな大きな仕事とは知らなかった」と、疲れが吹っ飛んでしまった。

 

                   ◇

 

 ― 東京国際フォーラム ―

 

 舟木は「その人は昔」のテーマを必ずと言っていいほどコンサートの構成の中に入れる。ファンの要望もさることながら、舟木自身がとりわけ思い入れのある曲だからだと思う。60周年記念のスタートとして東京・有楽町の東京国際フォーラムで行われたステージでは、舟木が以前から言っていた通り、40分以上にわたり“通し”で熱唱した。圧巻だった。この曲については次回、制作に携わった方々の思いを書く。

                                  (敬称略)