舟木一夫と共に⑱夢のハワイで盆踊り

夢のハワイで盆踊り (クラシックCD付)

 

 舟木一夫が恩師・船村徹に初めて会ったのは「夢のハワイで盆踊り」を作曲してもらった時だというから、1964年6月末ごろではないかと思う。舟木の第一印象は「とにかく先生は若い頃からコワモテで、注文を出すのもぶっきらぼう。40歳くらいに見えましたが31歳だったんですね」。「夢のハワイで盆踊り」はアレンジも船村で、舟木は「イントロや間奏を含めてのメロディーの美しさに驚きましたね」と話した。この曲を持ち出したのには訳がある。

 

 

 同年春ごろから「舟木が独立するらしい」という噂が業界で流れ始めた。堀の耳にも入ったが、舟木と3年の専属契約を結んでいたためあり得ないことと無視した。そんな矢先、同社チーフマネジャー・阿部勇の仕事を手伝うようになっていた舟木の父・栄吉から堀に対して「舟木の看板の序列を上げてほしい」という無理な申し入れがあり阿部に糾したが要領を得ない。激怒した堀は「明らかに契約違反だ」とトコトン決着をつけるつもりでいた。

 

 

 それを知った大正生まれの財界人の集まり「大正会」のまとめ役をしていた長谷川鏡次が堀を呼び出し、「今は矛を収めるのが君のためだ。新会社はホリプロ40%、阿部と栄吉で40%、残りの20%は大正会が持ち、舟木の興行権は当分の間、ホリプロが持つ」という提案を行い堀に飲ませた。6月8日正午過ぎ、堀、阿部、舟木らが東京・永田町のホテルニュージャパンで記者会見を行った。舟木がホリプロから独立して、阿部が新代表として16日に起こす第一共栄株式会社に移籍するという内容だった。舟木はこの話を以前に阿部から打ち明けられていたが、超多忙な舟木にとっては鬱陶しい話で真剣に聞いていなかった。

 

夢のハワイで盆踊り [DVD]

 

 第一共栄の初仕事が「君たちがいて僕がいた」に続く本間千代子との2作目の東映映画「夢のハワイで盆踊り」だった。舟木らはロケのため6月20日夜、羽田空港からハワイに飛び立った。スタッフ13人、キャスト8人、雑誌関係者6人、日本コロムビア関係者6人という大人数だったが、第一共栄は映画でのPRなどをタイアップ企画として提案し、往復のパンアメリカン航空、宿舎のヒルトン・ハワイアン・ビレッジなどの旅費・宿泊費はただになった。堀の信頼が厚かった阿部らしいやり方だ。映画は8月1日に公開され大ヒットした。

 

 

 この映画は元々日本コロムビアのディレクター・栗山章が東映のプロデューサーに「花の銀座で盆踊り」というタイトルの企画書を出したのが始まり。主人公は地方から出てきて都会で働く薄給の若者たち。周囲の無理解を克服して、ある夏の夜、東京・銀座4丁目の交差点に櫓を組んで盆踊り大会を実現する。出前の配達中に交通事故死して帰郷がかなわなかった仲間の慰霊のためだった…。企画は通らなかったが、東映のプロデューサーがプロ野球球団・東映フライヤーズが毎年ハワイ島でキャンプをしていることを思い出し「夢のハワイで盆踊り」のタイトルが閃いたという。

 

 

 

 実は、この年の4月1日、観光目的の渡航が1人500ドルまでの制限付きで自由化されたばかり。JTB(日本交通公社)のハワイ7泊9日ツアーの旅行代金は36万4000円。当時のサラリーマンの初任給が約2万円、平均月収が6万円程度だったから6倍から18倍ということになるが、一気に“夢のハワイ”が現実味を帯びてきていたのだ。映画「夢のハワイで盆踊り」はそんな時代の空気の中で公開された。ロケに向かう一行を乗せた飛行機が羽田空港を飛び立った時、栗山は歌謡曲の企画が空を飛び太平洋を渡ったという醍醐味を実感したという。

 

― UNITED AIRLINES 1950s HAWAII TRAVELOGUE DC-7 MAINLINER " HOLIDAY IN HAWAII "

 

 

 

  1948年に岡晴夫が歌ってヒットした「憧れのハワイ航路」から約10年、1959年12月から31年にわたってTBS系列で「兼高かおるの世界の旅」が放送された。そしてエルヴイス・プレスリー主演の米ミュージカル映画「ブルー・ハワイ」が日本で公開されたのが1962年5月、加山雄三の若大将シリーズ第4弾「ハワイの若大将」(東宝)の公開が翌年8月、「10問正解して夢のハワイへ行きましょう」のキャッチコピーで人気を博した「アップダウンクイズ」(TBS系列、日本航空協賛)のスタートが同年10月。「夢のハワイで盆踊り」はそんな“ハワイブーム”の中で生まれた映画と言っていいかもしれない。                            (敬称略)