舟木一夫と共に⑮「北国の街」について

― 長野県 飯山駅からの風景 ―

 

 舟木一夫にとって「哀愁の夜」と並んでファンの支持率が高い「北国の街/はやぶさの歌」が発売されたのは1965年3月。ステージではB面の「はやぶさの歌」を求めるファンの声も根強い。いずれも作詞は丘灯至夫、作曲は山路進一。とりわけ「北国の街」は山路にとって傑作の一つ。「ドラムを入れずにウクレレだけでリズムを刻んでいる新鮮な曲」(舟木)で、クラリネットが北村英治という贅沢な曲でもある。発売に合わせるかのように、3月から日活映画「北国の街」(監督・柳瀬観、脚本・倉本聰)の撮影が始まっている。倉本聰が脚本を担当しているのに注目だ。下は映画の台本。

 

 

 

 舟木は前作の「花咲く乙女たち」(1965年1月公開)から映画にも本気で取り組むようになり、「北国の街」が本格的な主演映画。「映画の主役として舟木がもつかどうかという勝負がかかっていた」(舟木)というだけあって、18日間のロケのためにテレビ、ステージなど数十本の仕事を全て断っての出演だった。舟木の意気込みは監督の柳瀬にも伝わり、「スクリーンで舟木君と会って良かったと観客に思ってもらえるような映画を目指した」と述べている。柳瀬によると、現場で台詞を紙に書いて舟木に渡すと5、6秒で頭に入れたという。

 

 

―北国の街ロケ地 飯山城址―

 

 この映画については、「あゝ青春の胸の血は」に続いて共演した和泉雅子に裏話などを聞いているので紹介したい。和泉は1947年7月31日、東京・銀座生まれ。劇団若草の後、金五楼劇団に入り、柳家金五楼のカバン持ちとして金五楼が白組キャプテンをしていたNHK「ジェスチャー」の楽屋に出入りしているうち、紅組キャプテンで日活プロデューサーの水の江滝子に見出された。日活入社2年目の1963年には「非行少女」(共演・浜田光夫)でモスクワ映画祭金賞、エランドール新人賞などを受賞している。

 

 「あゝ青春の胸の血は」(1964年年9月公開)で舟木と初共演した和泉はそれまで舟木をテレビの歌謡ショーでしか見ていなかったが、「好青年で爽やかな感じは日活にはいないタイプでした」。ものすごく忙しい時期だったため、ロケ現場に来たかと思うとパッと帰る。だから、舟木が立ち去った後は舟木があたかもそこにいるふりをして撮っていたという。「日活も歌謡映画を本格的に始めた頃で、舟木君も『北国の街』をきっかけに、ちゃんと映画をやりたいと考えるようになったんだと思います」と話す。

 

― 早春の千曲川と飯山線 ―

 

 「北国の街」は長野県と新潟県の県境が舞台で、国鉄飯山線の最終列車が飯山駅のホームに入ってきて和泉がホームで舟木を見送るシーンがある。和泉がカメラに背を向けて舟木に向かってしゃべりかけるところだったが、本番で汽車が入ってきた途端に台詞を全て忘れてしまった。しかし、そこはプロ。タイミングと間合いだけはしっかり覚えていた。とっさに舟木に「私、台詞を全部忘れちゃったの。だけど、驚いた顔をしないで。私が“はい、どうぞ”って言うから、舟木君は私の合図に従って台本通りにしゃべって」と言った。

 

― 長野 JR飯山駅構内 ―

 

― 日活データーベースより ―

 

 舟木は顔色一つ変えないで台詞をしゃべったが、次の駅で降りるなり車で戻ってきて「マコちゃん、ひどいよぉ」と怒った、怒った。和泉は後で譜面台に台本を読むアフレコをした。ぴったり収まった。完璧だった。和泉は自らを天才だと思った。「歌手は音程がいいから台詞が上手なんですが、舟木君は歌手の中でもダントツでした。脚本の台詞をこうしたほうがいいんじゃないのって大学ノートに書き込んでいましたから。そんなことまでやっていたのは日活では(吉永)小百合ちゃんと舟木君だけでしたよ」と話してくれた。                       (敬称略)

 

                  ◇

 

  

― “絵心”がある和泉雅子のサイン ―

 

 

 和泉雅子さんには個人的にもお付き合いをしていただき、資料を見せていただくために大雪の中を北海道の別荘までお邪魔したこともあります。雅子さんほどきさくで無邪気な方にお目にかかったことはありません。雅子さんは今でも舟木さんの公演があると、楽屋に出向き出番ギリギリまで(笑)おしゃべりをされています。舟木さんは「僕のことを“舟木クン”と呼んでくれる人は少なくなりました」と話されています。