舟木一夫と共に⑭作詞家・丘灯至夫夫妻

― 猪苗代湖 ―

 

 舟木一夫のデビュー曲「高校三年生」が発売された時、作詞した丘灯至夫の体調は最悪で福島・猪苗代湖で療養していたが、妻・ノブヨは「主人はたびたび電話局に行って、日本コロムビアの幹部から売り上げ数字の報告を受けていました」。几帳面な丘はそれを逐一メモに残していた。7月20日に11万5752枚、8月3日に16万1613枚、9月16日に41万1494枚…。その後も急速に伸びて年末には100万枚を超えるミリオンセラーを達成した。新人歌手のデビュー曲としては画期的な数字だった。

 

 

 

 

 丘は本名、西山安吉。1917(大正6)年2月8日、福島県小野町の西田屋旅館の6男として誕生。幼いころから病弱で、高校も3分の1を病気欠席している。18歳のころから文学に興味を持ち詩人を目指したいと思い、東京・新宿の西條八十宅に押し掛け弟子にしてもらった。まもなく医師から田舎に戻るよう指示され、朝日新聞に童謡を投稿していた。それが東京日日新聞(のちの毎日新聞)の上層部の目に留まり同社に入社。出版局から創刊された「毎日グラフ」の記者に配属された。

 

                                  

 1962(昭和37)年、45歳の秋に「毎日グラフ」の記者として東京・世田谷の松蔭高校の文化祭を取材している時、男女の高校生がかわるがわる手を取り合ってフォークダンスを踊る姿に衝撃を覚えた。通学路さえ男女別々だった自らの青春時代にはあり得なかった光景。帰宅した丘はその夜、興奮冷めやらぬ状態の中でまず「♪ぼくらフォークダンスの手を取れば 甘く匂うよ 黒髪が」という2番のフレーズを書きあげ、一気に「高校三年生」を完成させた。松蔭高校にはその後、「高校三年生」の歌詞が書かれた石碑が建てられている。

 

―東京都世田谷区北沢 私立松蔭学園にある高校三年生の歌碑―

 

 

 丘はその後も舟木のために「修学旅行」「君たちがいて僕がいた」「涙の敗戦投手」「まだ見ぬ君を恋うる歌」「北国の街」「成人のブルース」「東京は恋する」「雨の中に消えて」「夏子の季節」「青春の鐘」などを書き、いずれも大ヒットした。舟木は2017年1月25日、そのうち48曲を集めたCD「丘灯至夫生誕100年記念 舟木一夫 丘灯至夫を唄う」(日本コロムビア)を発売している。 丘は“青春歌謡のスター・舟木一夫“の礎を築いた作詞家といっていい。舟木と丘夫妻の公私ともどもの交流は永く続いていった。

 

丘灯至夫生誕100年記念 舟木一夫 丘灯至夫を唄う

 

 舟木が“寒い時代”のど真ん中にいた頃、丘夫妻は福島県を訪れた際、タクシーで某ホテルの前を通りかかると偶然、「舟木一夫ショー」という垂れ幕が目に入った。気になってタクシーを降りてホテルに寄ってみた。狭い会場は地元のおばさんたちがパラパラという程度の入りだった。ショーが終わってから楽屋に顔を出したら、舟木がポツンとしていたので「頑張りなさい」と激励の声をかけた。丘夫人のノブヨはその時のことを振り返って、「それでも努力している舟木君の姿を目の当たりにして、こうして歌を忘れない限り必ず蘇ると確信しました」と話した。

 

 

 舟木以外にも「高原列車は行く」「東京のバスガール」「智恵子抄」「襟裳岬」など数々の名曲を残した丘が92歳で亡くなったのは2009(平成21)年11月24日。入院中の病院から1時間だけ戻ってもいいという許可が出た日だった。妻・ノブヨが自宅で待っていたところ、病院から「容態が急変しました」と連絡があり、すぐに駆け付けた。丘の耳元でノブヨが「21日は私の誕生日だったのよ」と呼びかけると、丘のほほを一筋の涙が伝い、唇がかすかに動いたという。「私には『おめでとう』と言っているように見えました」。

 

決定盤 丘灯至夫作品集~高校三年生 高原列車は行く~

 

 

                   

 

 ノブヨさんとは「舟木一夫の青春賛歌」をまとめる際に、丘さんのお話を伺うために何度かご自宅にお邪魔した。毎回、駅まで自ら運転する車で迎えに来ていただいた。ご自宅には舟木さんと一緒に撮られた写真などがいっぱい飾られていた。毎年11月中旬に都内のホテルでノブヨさんが中心になって開かれていた「丘灯至夫作品を歌う会」にも毎回呼んでいただいた。

 

 

 

 

 

 もともとは丘さんの出身校である福島県立郡山商業高校(ぐんしょう)のOBらが「丘先生の歌を多くの人に歌いつないでいこう」という呼びかけで始まったもので、同じ福島県出身の作曲家・古関裕而の長男・裕正さんや地元マスコミ関係者、舟木さんのファンの方も含めて毎回200人前後の方が集まっていた。丘さんも当初は参加され、舟木さんが見えたこともあった。

 

― 福島県立郡山商業高等学校 Wikipediaより ――

 

 ノブヨさんはご主人の丘さんを心から愛しておられ、丘さんの新たな自伝を作りたいので力を貸してほしいと依頼され、いろいろアイデアを出し合っていた。その矢先の昨年5月5日、肺炎のために亡くなったという知らせを受け取った。享年88。ご長男によると、検査のため念のために入院するということだった。突然の訃報に誰もが耳を疑い絶句した。さようなら、そして有難う、ノブヨさん。