舟木一夫と共に⑬栗山章という人

 

― A.I.M. Corporation Limitedより ―

 

 舟木一夫がデビユーした1963年前後に日本コロムビアには2人の敏腕ディレクターがいた。1人は馬淵玄三で、作家・五木寛之の小説「艶歌」や「海峡物語」などに登場する“艶歌の竜”こと高円寺竜三のモデルになった。島倉千代子の「からたち日記」を皮切りにヒット曲を連発し、1961年からは美空ひばりを担当していた。もう1人が斉藤昇。堀プロ社長・堀威夫が大いに期待の持てる新人として上田成幸の話をコロムビアに持ち込んだ際に率先して受け入れ、当時28歳の新人・栗山章を成幸の担当ディレクターに大抜擢した実力者だった。

 

 

 栗山は1935年、福岡市の出身で、父親は高分子化学の権威で九州大学名誉教授・栗山捨三。息子の章は理科系には進まず、立教大学経済学部を卒業、同大学大学院文学研究科修士課程修了後に日本コロムビアに入社した。栗山は父親譲りの学究肌で「クラシックのディレクターならと思って入ったのに、いきなり歌謡曲担当を命じられ困惑した」と後に語っている。それもそのはずで、入社後、レコード会社社員なら当然知っていなければならない作曲家・古賀政男から「古賀ですが…」とかかってきた電話に「どちらの古賀さんですか」と聞き直したほどの歌謡曲音痴だった。

 

 

 栗山は「歌謡界は自分には向いていない」と思いつつも、「どんな仕事にも“奥義”と呼ばれるレベルがあるはず。それを極める努力をしよう」と自分に言い聞かせ、前向きに取り組むことにした。成幸の担当になった栗山は早速、デビュー曲について10編の詞を用意するなど、早速隠れた才能を発揮し始めた。栗山の頑張りは並みはずれていて、思いついたらすぐ実行に移した。このため、コロムビアの若い作曲家からは「私は栗山さんのピアノですか」、作詞家からは「私は栗山さんのペンじゃありません」などと苦情が出始めたほどだ。

 

  

 

 舟木のデビュー後、栗山は自分のアイデアを駆使した歌が次々にヒットし出すと、あまり興味のなかった歌謡曲、流行歌を真剣に勉強し始め、暇を見つけては大きな書店に出かけて本の背文字を眺めては歌のタイトルになるような言葉を研究するようにもなっていた。栗山には信念があった。「20代で会社の予算を任され、歌手志望の若者の人生(野望)を預かる恐ろしい仕事に就いた以上、妥協すべきではない。妥協したら死ぬのは歌手だから」。「高校三年生」などの作詞家・丘灯至夫も栗山の熱心さから、こんな体験をしている。

 

  

 

「栗山君は舟木君に歌わせる歌のための仕事で、私が確実につかまる時間に私の自宅に夜討ち朝駆けをし、私はその都度起こされた。夜中でもそれから仕事をすることになった。舟木君がデビューした後の昭和39年から40年にかけての2年間は、栗山君と私は仕事の修羅場の中にいるといった状態だった。『この歌詞は前に使いましたよ』などと叱られたこともある。それだけ良い仕事が出来た」。

丘灯至夫

 

この話は、のちに丘夫人・ノブヨにも何回か聞いた。それだけ応対に大変だったということだ。

 

 丘の師匠でもある詩人で仏文学者の西條八十が「高校三年生」が大ヒットした後、丘に「いい歌作ったな、お前。俺にも舟木君の歌を書かせろよ」と冗句交じりに言ってきた。この話は丘から栗山にも伝えられたのだろう。栗山は学生時代に日欧の近代文学にはまり、アルチュール・ランボーらを日本に紹介した仏文学者として西條から多くを学んでいた。丘から舟木の歌を書きたいという話を聞いて、1964年5月某日、初対面の挨拶と新曲の作詞のお願いを兼ねて、舟木とともに成城の西條宅を訪ねた。 

 栗山は、西條宅の古い玉突き台が見える古風な応接間に通された時、異常な緊張で震えてしまった。そんな栗山の緊張をよそに、舟木は西條に向かって「先生、ここ数年余りお仕事をなさっていないようですが、どうしてですか?」と質問した。栗山はなんて失礼なヤツだと思っていると、72歳の西條はニヤッと笑って、「うん、仕事をしてお金を稼いでも使ってくれる人がいなくなっちゃったから」と返した。続けて言ったことが洒落てる。

 

「君は知らないだろうけど、僕の奥さんが最近亡くなってね。僕の奥さんは大変な浪費家で、稼いできたものを湯水のように使ってくれた。その人が亡くなってから、仕事をするとお金がたまるばかりなんだ。これはつまらないことだよ」

 

― Wikipediaより ―

 

 舟木はその場で「この方の書かれる歌詞なら、絶対にお客さまに感動を与えてくださるだろう」という印象を持ち、西條も率直な舟木に好感を持った。栗山が書店で見かけたマルセル・プルーストの小説「花咲く乙女たちのかげに」を参考に、「花咲く乙女たち」というタイトルを西條に提案した。西條はまもなく「花咲く乙女たち」を書きあげた。自分が若いころ、舟木と同じように女性の憧れの的で書斎が贈り物の花でいっぱいだったが、彼女たちも花のようにいつか散ってしまう…。そんな思いのこもった名曲で、舟木のコンサートでは外せない曲の一つだ。

 

 

 

 

 

失われた時を求めて 4 第二篇 花咲く乙女たちのかげに 2 (集英社文庫)

 

 「花咲く乙女たち」は1964年の日本コロムビアのヒット賞に輝き、祝賀パーティーが開かれた。こういう席にはめったに顔を出さないという西條が姿を見せると、先に着席していた大御所の作曲家・古賀政男がすっと立ち上がり、「先生、ご無沙汰しております」と深々と頭を下げて挨拶した。その光景を目にした舟木は、西條の存在の大きさを思い知らされた。西條は壇上で「最近はバカな歌を書いている人が多い。例えば…」と言って曲名を上げて叱った。会場には名指しされた作詞家も来ており、全員が下を向いてしまったという。

 

花咲く乙女たち/若き旅情[EPレコード 7inch]

 

 西條と舟木、栗山の“トリオ”はこれを契機に、「絶唱」「夕笛」などの名曲を世に送り出していくことになる。この間、栗山は自ら企画した「その人は昔」(作詞・松山善三、作曲・船村徹)という大きな組曲も成功させ、内藤洋子が歌う同名映画の挿入歌「白馬のルンナ」も大ヒットさせた。そんな栗山がやがてコロムビアを退社することになる。舟木にとっては突然のことで、それ以来、「初恋」を除いて舟木のヒット曲はなくなり、やがて10年以上に及ぶ“寒い時代”に突入していく。

 

絶唱 [EPレコード 7inch]

 

夕笛 [EPレコード 7inch]

 

こころのステレオ その人は昔―東京の空の下で

 

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 栗山はコロムビアを退社後、ワーナー・ブラザース・レコードのアートディレクターとして迎えられ、映像、舞台のプロデュースにも取り組み、1985年にはニューヨーク・ジョイス劇場で行われた木佐貫邦子のダンス公演なども手掛けた。ワーナーレコードを退職後、1990年にニューヨークに移住し、ブルース・ウィリアムズ写真集「死ぬにはいい日だ--ニューヨーク道路情報」(1990年)、浮遊都市・ニューヨークの素顔を描いた「女王陛下の店—ニューヨーク漂流」(1991年)などニューヨークを舞台にした小説を次々に出版した。                      (敬称略)

 

死ぬにはいい日だ ニューヨーク道路情報―ブルース・ウィリアムズ写真集

 

                   ◇

 

 私は新聞記者時代に小説家・栗山さんと何回かお会いした。舟木さんの元ディレクターだったのを知っていたので話を向けると、「その話はもう…」と笑いながら横を向いた。その後、舟木さんの芸能生活50周年をお祝いする目的で夕刊フジで「舟木一夫の青春賛歌」を連載(2011年9月7日から2012年3月29日まで)することになった。この企画は栗山さんの“証言”がないと成り立たないと思い関係者を通じて連絡を取ったが、「コロムビアを離れて以来、その種の依頼は全てお断りしてきた」という返事だった。マスコミに対する不信感がある感じだった。迷惑だとは分かりながらも、私は何としても受け入れてほしい一心で、その後も何回かやり取りを続けた。

 

 

 やっと私の想いが伝わったのか、栗山さんは「それでは聞きたいことを箇条書きにして送ってください」と連絡してきた。連絡はファックスか手紙だった。何回かやり取りがあった後、10数ページに及ぶ「舟木一夫の資料 インタビューのかわりに」という綴り(下の写真が表紙)が入った手紙が届いた。この資料に対して私から若干の質問をして、栗山さんからの最後の手紙を受け取ったのは2011年12月12日。この中には連載記事を読んでいただいたうえでの訂正箇所の指摘もあったが、記事には概ね満足していただいている内容だった。あえて選ばれたとは思わないが、最後の手紙が届いた日は舟木さんの67歳の誕生日だった。

 

 

 栗山さんの訃報を知らせる手紙を受け取ったのは2年後の2013年12月3日。日本の事務所として使っていた港区三田のマンションの一室で「6月10日ごろ病死された」と記されていた。一人寂しく旅立たれた栗山さん、78歳だった。