舟木一夫がデビュー当時住んでいた新宿区若葉

 

舟木一夫と共に⑫若葉の私設応援団

 

この通りの奥に舟木が住んでいた4階建てアパートがある

 

― 新宿区若葉1丁目  ―

 

― 舟木が住んでいた4階建てアパート ―

 

 デビュー前から応援団が結成されたこと、その中に大物がいたこと。これも「運」というしかない。

 

 

 上田成幸が上京後に住み始めたアパート「青葉荘」があった新宿区若葉は、当時の国電・四谷駅から新宿寄りに約200mの南側一帯のところ。成幸はここから、目黒区の自由が丘学園高校、中央線西荻窪駅近くの遠藤実の音楽教室に通うかたわら、上智大学グラウンド横の土手を降りて音楽教室では出せない大きな声を張り上げて発声練習を続けていた。遠藤は教室では小さな声で歌うから心配していたが、遠藤は土手で発声練習をしていたことは知らなかったはずで、レコーディングの際の大きな声に驚いたことは前に書いた。

 

― 上智大学グランド ―

 

 ある夜、同じ土手で大声を張り上げている中年の男性がいて、大声を張り上げてプロ野球・読売巨人軍の選手の名前を連呼していた。気になった成幸は「おじさん、ジャイアンツファンですか。僕もファンなんです」と話しかけると、嬉しくなった中年男性はいろいろ質問してきたため、成幸は高校三年生で歌手になるために単身上京してきていることなどを伝えた。この男性こそ、巨人軍の私設応援団長として名をはせていた当時40歳の関矢文栄だった。最初の出会いではお互い名前も名乗らないまま別れた。

 

 

 しばらくして、関矢がいつものように“仕舞い湯”の時間帯に若葉一丁目の銭湯「梅の湯」に行って浴場の戸を開けたとたん、湯気の中から土手で聞いた歌声でフランク永井の「夜霧の第二国道」が流れてきた。その周りには同世代の若者たちが聞きほれていた。お互いに自己紹介して、関矢はこの時から巨人軍とともに成幸の応援団長も買って出ることになった。関矢は早速、「梅の湯」の主人・田中慶一に相談して、若葉町あげて成幸を応援しようと立ち上がった。一つの目標にひた走る成幸の人柄に惚れ込んでのことだろう。

 

 

 町内には著名人も多く、直木賞作家で演劇評論家・安藤鶴夫、歌舞伎俳優の10代目・岩井半四郎、コメディアン・三木のり平らにも声をかけ、賛同者は1000人近くなった。安藤にはデビュー直後、挨拶するために「高校三年生」を持って自宅を訪ねた。安藤は妻、娘も一緒に応接間に集めてデビュー曲を聴いてくれた。安藤は「素直で美しい叙情に満ちている歌いぶりに感動した」。そして、若葉あげての応援に「まことに心温まる美しい町の物語ではないか」と、自らも全面的に協力することになった。

 

― イメージ ー

 

 成幸は舟木一夫としてデビュー後もしばらく銭湯「梅の湯」を利用したが、そのうち舟木のサインを求めて銭湯に来る女性客が急増すると、主人の田中は「舟木一夫のサインをご希望の方は、番台に色紙をお預けください。当方がまとめて扱います」という張り紙を出し、そのうち舟木のスケジュールまで掲出して応援するようになった。田中は舟木の誕生日に銭湯で誕生パーティーを開いたこともあった。岩井半四郎や三木のり平とはその後、舞台やテレビで何回も共演することになるから、巡りあわせというものは面白い。

 

 

 私が夕刊フジで「舟木一夫の青春賛歌」を書いている頃、昭和10年創業の赤坂の老舗割烹の女将が「上田(成幸)君はデビュー前にウチで働いていたことがあるのよ」と教えてくれた。最初はこの店でアルバイトをしていた“銭湯仲間”に連れられて「上田も働けませんか」。定員いっぱいでNGだったが、「そのうち(上田君は)毎日のように来るようになり、仕込みの手伝いや揚げ物の片付けなどをしてくれた。高校卒業まで食べさせてほしいというので、店員らと一緒に賄いを食べてから帰るという日課が続きました」と話してくれた。

 

舟木一夫の青春賛歌

 

 成幸が店に来なくなってからは音信不通。舟木一夫としてデビューした後も、歌番組が放送される時間帯と超多忙な店の営業時間が重なっていたうえ、まさか成幸が舟木一夫とは思いもよらなかったため、しばらく誰も気づかなかったという。この話を聞いてから、そういえば舟木はデビュー前に“給料”は出ていたのか。面倒をかけるのが嫌いな性格だから、こっそりアルバイトをしていたのではないか…等々いろいろ考え確かめたいことが出てきたのだが、これらの問題はいまだに解決していない。

 

赤いラインで囲まれているのが新宿区若葉1丁目