舟木一夫と共に⑪自作のカラオケテープ

 昭和30年代には全ての家庭に電話が設置されていたわけではない。近所で電話がある家庭で拝借することもあった。かかってきた時はわざわざ呼びに来てくれた。舟木一夫もテレビの番組で子供の頃にそういう体験をしたことがあると話していた。堀プロダクション社長・堀威夫から成幸の父・栄吉にかかってきた電話もそうだったかもしれない。隣人のことに無関心な人が多い今と比べれば、やはり“古き良き時代”だったとしか言いようがない。

 

 

 堀からの電話には不信感を抱いていた栄吉だったが、学校から帰ってきた成幸に「ホリタケオという人を知っているか。ツネムラさんとかいう人の紹介だと言って電話がかかってきたぞ」と伝えた。成幸は“あの日”からすでに1か月近くたっていたので忘れかけていたが、栄吉にジャズ喫茶での出来事を話した。それを聞いた栄吉は納得がいったようで、「芸能プロダクションの社長さんだそうだ。お前の歌を聴きたいのでテープを送ってほしいと言っていたぞ」と説明した。

 

 

 テープを送ってほしいと言われたものの、まだカラオケがない時代。成幸はいろいろ考えた末、学校と友人からオープンリール式のテープレコーダーを1台ずつ借りてきて、何回もダビングを繰り返して自作のカラオケテープを作り、これに一番自信があった松島アキラの「湖愁」を吹き込んで送った。私は舟木の芸能生活50周年記念の「舟木一夫の青春賛歌」をまとめるにあたり、東京・目黒のホリプロ本社に行って堀から直接当時の話を聞くことが出来た。

 

 

 堀はテープを聞いて感動したと言った。そして、昨日のことのように実によく覚えていた。堀の説明によると、最初はレコード盤の音を生かした見事なオーケストラによる前奏、一番の歌に入る前にその音がプツンと切れて成幸の歌だけになる。アカペラだ。歌が終わるとまたオーケストラになり、二番の歌はまたアカペラ。エンディングまでこの調子で、この間、テンポが寸分もズレないまま作り上げていたという。私はいつか舟木自身にも話を聞きたいと思っている。堀はその時、次のように話してくれた。

 

 

 「彼の歌は確かに上手かったのですが、私は歌の上手い下手より彼の几帳面さにほれ込んだんです。当時、流行歌手はややルーズな無頼の徒みたいなところを勲章にしていて、人気者になるとある種の権力を持つという傾向がありました。私は常日頃からそういう価値基準がおかしいと思っていたので、彼がスターになったら理想的な歌手になると信じていましたね」

 

 

 堀からの連絡がしばらくなかったため、成幸はやはりダメだったのかと諦めかけていた矢先、堀から電話があった。「よく出来ていた。感動したよ。近く、名古屋に行くので、お父さんと一緒に会えないかな」。栄吉の説得が難しいと考えた堀は、成幸が山田昌宏のレッスンを受けていることを知り、NHK名古屋放送局に勤めていた知り合いの山田の義理の兄を通じて山田に自分の“身分照会”をしてもらった。この用意周到さが、のちに和田アキ子森昌子らを発掘することになる。

 

 週刊明星記者・恒村嗣郎からジャズ喫茶での成幸の話を聞いた数多くの芸能関係者の中から、堀の目に留まり関心を持ってもらったことが舟木自身が呼び寄せた大きな「運」だと言えるのではないだろうか。

 

 

                  ◇

 

 上田成幸、父・栄吉、成幸の先生・山田昌宏の3人は1962年4月某日、NHK名古屋放送局のロビーで堀プロダクション社長・堀威夫に会った。具体的な話は後日、成幸と栄吉が上京して、堀プロのマネジャー・阿部勇と会って決めることになった。ここまで話が進んでくると、栄吉はもはや成幸を留めることは出来ない状況になった。5月14日早朝、栄吉は妻・節とともに国鉄・尾張一宮駅まで成幸を見送りにいった。そして急行列車を待つ間、ホームで17歳の成幸に語りかけた。

 

 

 「芸能界というところはとても厳しい世界だ。たとえ失敗しても心配せずにまっすぐ家に帰ってくるんだぞ。お父さんもお母さんもいつでも喜んで迎えるからな」

 

 上京後すぐ、成幸は阿部が住んでいる新宿区若葉町のアパート「青葉荘」に案内された。2畳敷きの板の間に3畳間と6畳間があり、成幸は3畳間に居候することになった。同時に堀プロの手配で目黒区の自由が丘学園高校の3年生に編入した。まもなく堀から「日本コロムビアからデビューすることになると思うが、浜口庫之助先生遠藤実先生なら、どちらの先生がいいかな?」と聞かれた。 成幸は自分の声質、雰囲気を考えて、「遠藤先生にお目にかかりたいと思います」と答えた。

 

―新宿区若葉の東福院坂(天王坂)から望む須賀神社方面―

 

 詳しい経緯はともかく、成幸の希望は受け入れられ、この時点で“師匠・遠藤実”が決定した。遠藤の自伝「涙の川を渉るとき」(日本経済新聞出版)によると、遠藤は週刊明星記者・恒村嗣郎に連れられてきた成幸と日本コロムビアのスタジオで初めて会った。成幸はここでも松島アキラの「湖愁」を歌った。遠藤は「確かにはやりの歌い方ではあったが、それ以上ではない。しかも様子をうかがっていると、彼はいつも自信がなさそうに俯いてばかりいる。果たして芸能界で生きていけるだろうか」と思ったと書いている。

 

涙の川を渉るとき: 遠藤実自伝

 

 堀から聞かれて遠藤を“指名”したことに、また「偶然」と「運」が働いている。この年齢の歌手の卵にどの先生を選びたいかということは普通あり得ない選択肢だ。

 

 

 そういう遠藤の評価とは別に、日本コロムビアには成幸が高校を卒業したらすぐに歌手デビューさせたいという事情があった。というのも、1963年前後のコロムビアは橋幸夫で成功した日本ビクターに照準を合わせ、新人歌手で販売シェアを一気に伸ばそうとしていたからだ。そこに社の期待を一身に背負って彗星のごとく現れたのが成幸だった。敏腕ディレクターの斎藤昇は、堀が成幸の話をコロムビアに持ち込んだ際、率先して「私が引き受けましょう」と言って、成幸の担当ディレクターに28歳の新人・栗山章を大抜擢した。

 

 若い新人の栗山が成幸の担当ディレクターに就いたことは、後の舟木一夫の快進撃を考えるときに欠かせない存在になった。これも舟木の「運」と呼んでいい。

 

―上智大グラウンドと土手の小道ー

 

 成幸は遠藤の教室のうちデビュー間近のレッスン生が受ける土曜日クラスにいきなり入れられた。このクラスはほとんどが女性で照れ屋の成幸は躊躇した。遠藤は満足に声を出させるため、成幸にいろんなタイプの歌を歌わせたが、レコーディングの日まで心配していた。成幸はレッスンがない日はアパート「青葉荘」に近い上智大グラウンド前の土手で夜な夜な発声練習を続けた。成幸はここで若葉町内に住むさまざまな職業の人に出会い、やがてデビュー前から応援団が結成されることになる。

 

ーデビュー当時の舟木一夫のサインー