舟木一夫と共に⑥12日は坂本九の命日

―スウェーデンのトーク番組でインタビューする坂本(1964年10月)Wikipediaより―

 

 舟木一夫は1964年2月12日公開の東京映画「ミスター・ジャイアンツ勝利の旗」に出演している。タイトル通り、ミスター・ジャイアンツこと長嶋茂雄選手が主役の映画で、川上哲治監督はじめ王貞治選手、藤田元司投手ら巨人軍の選手は総出演した。

 

ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗

 

 主演はフランキー堺。デビュー間もない舟木は藤田邸にいる青年役でワンシーンだけ登場した。そういう意味では貴重な作品だ。巨人軍の私設応援団長で舟木の応援もしていた関矢文栄の推薦があったものと思われる。

 

 

 この映画の主題歌「勝利の旗」(作詞・足立万里、補作・サトウハチロー、作曲・服部良一)を歌っているのが坂本九。すでに1961年10月15日にリリースした「上を向いて歩こう」(作詞・永六輔、作曲・中村八大)が大ヒットし、「SUKIYAKI」は米ビルボード誌のチャート(1963年6月15日付)で1位を獲得していた。

 

 

―Sukiyaki-English version ―

 

 舟木が6月5日に「高校三年生」でデビューして10日後のことだ。坂本は1960年代は他にも「見上げてごらん夜の星を」などヒット曲が多い。舟木も「日本の名曲」で取り上げたことがある。

 

― 坂本九のサイン ―

 

 私は今でも「坂本九」の名前を見たり聞いたりするたびに“あの日”を思い出す。1985年8月12日の日航機墜落事故だ。明日が38年目の坂本の命日になる。坂本は当日午前、東京・渋谷のスタジオで公開収録を終え、知人の選挙応援のために同機に乗り合わせていた。

 

 私は前日夕から、同機が墜落した群馬県上野村の御巣鷹山で悲惨な事故を取材していた。坂本への追悼の気持ちも込め、そして悲惨な事故が二度と起きないために、“あの日”のことを書いた文章をそのまま再録する。

 

 

                   ◇

 

 乗員・乗客524人を乗せて羽田空港から大阪に向けて飛び立った日本航空123便、ボーイング747SR機が群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に激突して墜落したのは、1985年8月12日(月曜日)午後6時56分30秒過ぎだった。お盆の帰省客、ビジネスマン、著名人らを含む死者520人という、単独機の航空機事故としては世界最大の大惨事となってしまった。

 

― 事故機のJA8119(1984年4月16日撮影) Wikipediaより―

 

 当時33歳の私は警視庁記者クラブに詰め、捜査二課・四課(汚職、詐欺、暴力団など)を担当していた。その日はいつものように、産経新聞のボックスの中でそろそろ夕食に出て夜回りに向かう準備をしていた。本社社会部から時事通信の速報という形で「ジャンボ機が行方不明」の第一報が入ったのは、午後7時過ぎだった。

 

 ええっー!! 同僚と一緒に社会部と頻繁に連絡を取り、かたっぱしから関係先に電話して事実関係の把握に努めた。123便の機影がレーダーから消えたことは疑いようのない事実となった。しかし、肝心の墜落現場が確認できない。長野県佐久市方面というものから、長野・群馬県境の碓井峠、浅間山付近、奥秩父山中に至るまで情報は交錯していた。

 

― 事故調査委員会の報告書を基にした123便の飛行経過 ―

 

 一刻も早く現場に向かいたい。私を含む数人が夜回り用に待機させていたハイヤーに飛び乗った。中央高速をぶっ飛ばし、自動車電話とハンディ無線で社会部、記者クラブと連絡を取り続けた。途中、やはり行き先を特定できないまま猛スピードで走っている他社のハイヤーに追いつ抜かれつのカーレースも展開した。長野・群馬県境にあるお寺に着いたのは午後10時過ぎだったと思う。近くの住民も集まり、テレビにくぎづけになっていた。お寺の方がおにぎりを作ってくれて有り難く頂戴した。11時過ぎになって、NHKが「南相木村の御座山付近に墜落」というニュースを流したが、すぐに別の情報に訂正するなど動くに動けない状況が続いた。

 

 午前4時か5時だったのではないか。捜索に向かう自衛隊員を見つけて行動をともにしようということになり、彼らの姿を探した。本社から向かっていた同僚記者とも合流し、私を含む何人かが自衛隊の一行を追いかける形で山を登り始めた。どこから入ったのか記憶が定かでない。記者クラブを出たときと同じ背広、ネクタイ、革靴姿。水も食べ物も用意していない。登り始めたら、これが想像を絶する世界。地元の人ですら通ったことのない所。猛暑の中、深いクマザサをかき分け、雑木の生い茂る急斜面を滑り落ちないように木の枝につかまりながら、ひたすら現場を目指した。

 

― 御巣鷹山を流れる沢。生存者の1人がこの近くで発見された ―

 

 ところが、一定の時間を歩くと自衛隊の部隊が“休憩”に入る。携帯していた缶詰を開け水筒の水を飲み始めるではないか。一緒に休むわけにはいかない。追い抜かして道なき道をさらに進む。頼りははるか遠くから聞こえるヘリの音だけ。ワイシャツは汗でびしょ濡れ、のどはカラカラ。背広も靴も泥だらけだ。 それでも約5時間かけて現場にたどり着いた。茫然自失。愕然とした。引きちぎれた翼や紙くずのようになった機体、焼け焦げた木々から白い煙りが上がり、バラバラになって地面に埋もれている手足、断片になって散らばる内臓、乗客の鞄や手帳、衣類などが足の踏み場もないほど散在し異臭を放っている。木にぶらさがっている遺体もあった。おもわず目を背ける。

 

 

 見たままを無我夢中でメモ帳に書き記した。生存者がいたという情報も耳にしたが、捜索隊員に詳しい話を聞くのもはばかられた。1時間くらいはいただろうか。その時ハタと気づいた。原稿を送る手段がないではないか。無線機を持っていた同僚も見当たらない。躊躇している場合じゃない。下山するしかない。もと来た道をたどりながら、しゃにむに下りていく。もうカンに頼るのみだ。ヤブはさらに深くなる。どこを下っているのか全くわからない。クマザサの葉についた水滴をなめながら進む。そのうち陽がだんだん落ち、暗くなってくる。恐怖感に襲われる。ここで死ぬかも知れない。こんな所で死んだら見つけてくれるだろうか。それでもひたすら下り続ける。

 

 5時間以上かけ、何とか麓らしき場所に出た。真っ暗でどこなのか分からない。近くを流れる川を辿って進んだ。運よくというのはこのことだろう。向こうの河原に何台かのハイヤーの明かりが見えた。ああ、助かった。運転手にわが社の前線本部の場所を聞いてかけつけた。「連絡もせずに何をしていたんだ」。前線キャップの第一声だった。翌日から、昼間は藤岡市に設けられた遺体安置所での取材、夜は事故調査委員会のメンバーへの夜回りという日課が10日間ほど続いた…。

 

― 墜落現場に建てられた昇魂之碑―

 

 

                  ◇

 

 スマホなどがまだない時代。亡くなった方の中に坂本九が含まれていることを知ったのは前線本部に着いてからだった。その後は毎年8月12日を迎えるのさえ辛く現場には行けなかった。あの惨状を見た者にしか分からない。しかし30年目の区切りの年に、もう一度現場に向かわなければならないという気になった。今は“道”がついていて、現場に向かいやすくなっている。慰霊碑も建てられている。昨年(2022年)は、現場に坂本九の妻・柏木由紀子が亡き夫の墓前に花を添える姿もあったという。

                                  (敬称略)

 

― 整備された御巣鷹山登山道を歩く筆者 ―

 

 

     ― 坂本九(本名・大島九)の墓標 ―   ― 柏木由紀子の著書(光文社) ―

 

 

 坂本九の「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」として米ビルボード・チャートの1位に輝いた歴史的快挙から60周年にあたる2023年6月、「上を向いて歩こう/SUKIYAKI」関連のアイテムを収納したBOX「TRESURE BOX of『上を向いて歩こう/SUKIYAKI』」(12009円)が発売された。

 

『THE BOX of 上を向いて歩こう/SUKIYAKI』 (限定盤)(2枚組)(2SHM-CD+DVD+BOOKLET付)[Analog]

 

 また、2023年5月22日には柏木由紀子による初のファッションブック「柏木由紀子ファッションクローゼット」(扶桑社ムック、1870円)も発売された。坂本九との新婚旅行で買ったネクタイ&ベーレー帽などの秘蔵アテイムも掲載されている。

 

柏木由紀子ファッションクローゼット (扶桑社ムック)