舟木一夫と共に⑧上京からデビュー前夜

 

 1962年5月14日は、上田成幸(舟木一夫の本名)が歌手になるために単身上京した記念の日だ。弱冠17歳だった。そこに至るまでの経緯を簡単に振り返っておく。

 

 成幸は1960年4月1日、音楽のレッスン教室に近い名古屋市内の学校法人愛知学院愛知高校に進学した。17歳の橋幸夫が日本ビクターから「潮来笠」でデビューするのは3か月後の7月5日。高校2年の春、成幸が初めて「歌手になりたい」と打ち明けた時、父・栄吉には「歌の勉強はいい。それと職業にすることは別だ。芸能人ほど浮き沈みの激しい商売はないことは俺が一番知っている」と猛反発された。

 

― 愛知学院愛知高等学校 ―

 

 成幸は決めたことは親父に反対されても突き進む。高校2年の3学期、学校をズル休みして地元のテレビ局・CBC(中部日本放送)の人気番組「歌のチャンピオン」に出演。予選を勝ち抜いてチャンピオン大会で松島アキラの「湖愁」を歌ってチャンピオンになった。成幸には公の場で自分の歌が認められたことで大きな自信になった。たまたま出先で用談中だった栄吉は成幸に似た声に気づいて番組を見て、成幸の決意の固さを思い知らされた。

 

 

 1962年3月、同級生から「名古屋のジャズ喫茶でガールフレンドとデートをする約束をしていたが、彼女に部活の予定が入って行けなくなった。お前代わりに行かないか」と誘われて出かけた。松島アキラ・ショーの会場の前から2列目だった。ショーの最後に松島と一緒に「湖愁」を歌うチャンスが来た。歌い終えると、東京から取材に来ていた週刊誌の記者から紙を渡され「住所と名前、電話番号を書いてくれないか」と言われるまま書いて渡した。これがホリプロ社長・堀威夫の手に渡ることになって歌手への道が具体的になっていく。

 

― 金華山から見る春の長良川 ―

 

 舟木は私によく「濃尾平野のど真ん中にいた少年が、自分で大した苦労もしないまま、本当に偶然に偶然が重なって歌い手の道に入ったんですね。やはり歌を歌うためにこの世に出てきたのかなぁって思います」と話す。ジャズ喫茶前後の話は、まさにその典型例だ。成幸が両親に「芸能界はとても厳しい世界だ。たとえ失敗しても心配せずにまっすぐ家に帰ってくるんだぞ」と見送られて尾張一宮駅を後にするのは1962年5月14日早朝で、東京駅に着いた成幸は歌手への第一歩を踏み出した。

 

― 東京駅 ―

 

 

 成幸が上京した1962年5月以降にはどんな出来事があったのか。5月6日⇒TBSテレビ系で「てなもんや三度笠」放送開始、8月12日⇒堀江謙一が小型ヨット「マーメイド号」で日本人初の太平洋横断に成功、10月10日⇒ボクシングのファイティング原田が世界フライ級チャンピオンに、10月22日⇒キューバ危機発生、11月5日⇒美空ひばり小林旭が結婚(2年後に離婚)…など。植木等の映画のヒットで「無責任時代」という言葉が流行語になったのもこの頃だ。

 

― サンフランシスコから出航 ―

 

 「てなもんや三度笠」は「あんかけの時次郎」こと藤田まこと、「珍念」こと白木みのるの名コンビがウケて、提供会社のPRとして藤田が発した“あたり前田のクラッカー”という言葉も流行った。舟木も何回か出演して俳優・役者としての演技の幅広さを見せ、のちに大阪・新歌舞伎座の舞台で自らも演じることになった。また、この年の日本レコード大賞に橋幸夫&吉永小百合の「いつでも夢を」が選ばれている。

 

てなもんや三度笠 [DVD]

 

 

いつでも夢を[吉永小百合][EP盤]

 

 成幸は上京後、夏休みにも帰省しないでデビューに向けた準備をしていた。あっという間に師走を迎えたが、成幸が居候していた堀プロマネジャー・阿部勇(のちに勇吉)の「青葉荘」の部屋にはまだテレビがなかった。成幸は何としても大晦日の「NHK紅白歌合戦」を見たかったので阿部に懇願した。阿部は持っていた貯金を全て吐き出して、成幸のためにテレビを購入した。日本コロムビアが全力を傾注している成幸の頼みは阿部にも重いものがあったのだろう。

 

 大晦日にはアパート近くのフードセンターに正月料理の買い出しに行き、新しいテレビで「第13回紅白歌合戦」を楽しんだ。司会は白組が宮田輝、紅組が森光子。白組のトップは松島アキラの「あゝ青春に花よ咲け」、トリが三橋美智也の「星屑の街」。紅組は仲宗根美樹の「川は流れる」で始まり、最後は島倉千代子の「さよならとさよなら」だった。視聴率80.4%。大晦日に紅白の大舞台に立つことは歌手の夢であり勲章だったが、まさか1年後に実現するとは夢にも思わず、2人の話題にもならなかった。

 

決定盤 NHK紅白歌合戦 トリを飾った昭和の名曲

 

 1963年を迎えると、浅草の国際劇場では「いつでも夢を」でレコード大賞を受賞したばかりの橋幸夫特別公演が幕を開けた。当時は浅草国際と日劇でワンマンショーが出来るかどうかで芸能人としての格が決まっていた時代だ。成幸は劇場の“見学”とともに、堀プロの先輩コーラスグループ、モアナ・エコーズの歌を聴くために浅草国際に足を運んだ。ところが、先輩は自分たちの持ち歌を歌わず、橋の持ち歌ばかりをメドレーで歌っている。成幸は終演後、楽屋を訪ねて驚いた。

 

  

―日劇跡地は有楽町マリオンに―

 

ー国際劇場跡地は浅草ビューホテルに―

 

 先輩たちは浅草国際のステージに立てたこと自体に感激していた。成幸が思わず「そんなことで嬉しいんですか?」と生意気なことを言うと、先輩は「ここに立つことがどんなに大変か、お前は何も分かっていないよ」と一喝された。譲らない成幸は「じゃあ僕が1年以内にここでワンマンショーをやったら、同じ条件で出ていただけますか?」と畳みかけると、先輩たちからは「ああ出てやるよ。そんなに甘いもんじゃないぞ」と鼻で笑われた。成幸は19歳の橋のショーを見て自分にも出来ると自信を持ち自らにハッパをかけたのだろう。

 

 

 日本コロムビアも年明けとともに、成幸のデビューに向けての動きを加速させた。前年に遠藤実北原謙二のために当時流行っていたドドンパのリズムで書いた「若い二人」が大ヒット。北原も大阪のジャズ喫茶で活動後、上京して「銀座テネシー」で歌っているところをスカウトされた下積みのある歌手で、この歌は地方から東京に集団就職してきた若者たちの応援歌としても支持された。北原のヒットによってコロムビアの青春歌謡路線の素地が作られ、成幸のデビューは待ったなしの状況になった。

 

 

 成幸の高校時代(1960年4月~63年3月)に流行った歌は、舟木も良く歌う西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」、石原裕次郎&牧村旬子の「銀座の恋の物語」、坂本九の「上を向いて歩こう」、橋幸夫&吉永小百合の「いつでも夢を」、村田英雄の「王将」など。映画ではアラン・ドロンの「太陽がいっぱい」、ナタリー・ウッド&ジョージ・チャキリスの「ウエスト・サイド物語」などの洋画がヒット。また、「60年安保」「所得倍増計画」「ダッコちゃん」「巨人・大鵬・玉子焼き」「東洋の魔女」「地球は青かった」「無責任時代」などが流行語になった。

                                  (敬称略)

 

アカシアの雨がやむとき 【EP盤】

 

銀座の恋の物語

 

上を向いて歩こう

 

橋幸夫/吉永小百合「いつでも夢を cw あすの花嫁」【受注生産】CD-R (LABEL ON DEMAND)

 

【EP】村田英雄 王将/夫婦春秋

 

 

 

― 「太陽がいっぱい」予告編 ―

 

― ジョージ・チャキリス(中央)―