舟木一夫と共に⑤「歌手」へ固い決意

 

― 一宮市立萩原中学校 ―

 

 上田成幸(舟木一夫の本名)は1957年4月1日、愛知県一宮市立萩原中学に進学。得意な水泳部と同時に音楽部にも入部した。音楽部の20人は全員女性。音楽担当教諭の北原雅は「やっと男が来たか。お前が部長だ。やりたいようにやれ」と激励した。

 

 

 成幸は2学期になると自ら部員を増やし、全員にサカホン(ハーモニカに似た楽器)を持たせ“ハーモニカ・バンド”を結成。こうして北原と巡り合ったことは成幸の音楽人生に大きな影響を与えた。

 

 

 成幸は中学2年の時、父・栄吉に「小遣いは一銭もいらないから、歌の勉強をさせて欲しい」と頼んだ。栄吉は意外にも「どうせ習うなら一流の先生にしろよ」とまで言って賛成してくれた。善は急げだ。

 

 成幸は翌日、北原に「音楽を基礎から学びたいので、いい先生を紹介してくれませんか」と打ち明けた。しばらくして紹介されたのは、NHK名古屋放送局でコーラスグループ「東海メールクワイヤー」の常任指揮者として活躍していた山田昌宏だった。

 

― 現在の名古屋放送局 ―

 

 成幸の中学時代のヒット曲は、島倉千代子の「からたち日記」、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」、三波春夫の「チャンチキおけさ」、平尾昌晃の「星はなんでも知っている」、水原弘の「黒い花びら」、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」など。映画では石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」「嵐を呼ぶ男」などがヒット。文学界では三島由紀夫の「美徳のよろめき」がベストセラーになり“よろめき”が流行語になった。

 

からたち日記 島倉千代子 EP盤

 

有楽町で逢いましょう

 

チャンチキおけさ

 

ペギー葉山/南国土佐を後にして 7インチアナログ

 

嵐を呼ぶ男

 

美徳のよろめき (新潮文庫)

 

 山田はなかなか味わいのある先生で、山田が病気で入院した際、成幸が見舞いに行くと、いきなり「君、40円くれないか」と言ってベッドから起き上がり、成幸を連れて飲み屋街に直行。コップ酒を一気に飲み干した。

 

 

 成幸が舟木一夫としてデビューした翌年に浅草国際劇場で開いたワンマンショーの際は病を押して楽屋に駆け付け、舟木がお祝いにもらった日本酒をコップにつぐと一気に飲んだ。楽屋を出る時、舟木に「音声障害が起きているから注意しなさい」と忠告。それが最後の言葉になった。

 

 

 話を戻す。成幸は中学3年の1学期から毎週土曜日の午後、名古屋市内の山田の教室でレッスンを受けた。クラシックの基礎を本格的に習った。そのうち週1回では少ないと思い、高校は山田の教室に近い学校法人愛知学院愛知高校を探して水曜日の放課後もレッスンに加えた。

 

 山田は月謝を据え置いてくれたうえ度胸をつけさせるため、年1回開いていた定期コンサートに成幸を出演させ、学生服のままピアノの演奏だけで伊藤久男の「あざみの歌」を歌わせた。成幸は人前で歌謡曲を歌うのは初めてだった。

 

 

 熱心な成幸の姿を見た栄吉は、中古のピアノやテープレコーダーを買い与えて“援護射撃”した。同級生は「お母さん(節)も宝塚の入団試験を受けたくらいの人で音楽に理解があった」と証言する。

 

テープレコーダーレコードプレイヤー

 

 そのころ成幸はラジオから流れるディック・ミネ淡谷のり子のブルースにも興味を覚え、気になった歌詞はボールペンで大学ノートの1ページに4曲ずつ書き留めていった。このことは友人もよく知っていて「お前、書き慣れているだろう」ということで、友人のラブレターの代筆もやらされた。

 

 

 高校2年の春、成幸は栄吉に「歌手になりたい」と打ち明けた。しかし、期待に反して栄吉は「それはだめだ。歌を勉強することと、それを職業にすることは別だ。芸能人ほど浮き沈みの激しい商売はないことは俺が一番知っている」と猛反発した。

 

 自分の実力を広く認めてもらうしかないと考えた成幸は次の行動に出た。高校2年の3学期、地元のテレビ局、CBC(中部日本放送)の人気のど自慢番組「歌のチャンピオン」に学校をズル休みして出演した。山田にも知らせなかった。このあたりに絶対歌手になるんだという並はずれた成幸の決意が見える。

 

― 現在の中部日本放送 ―

 

 予選を勝ち抜いた成幸は、チャンピオン大会で松島アキラの「湖愁」を歌い見事チャンピオンに選ばれた。この模様は生放送された。たまたま出先で用談中だった栄吉は近くのテレビで成幸が緊張し切った顔で歌っているのを見つけ、慌てて用談を中断して自宅に戻り妻の節にただした。

 

湖愁

 

 節は成幸から事前に相談を受けていたことを隠し「あまり叱らないほうがいいですよ。好きなことは仕方ないですから」と宥めた。たまたま風邪で高校を休んで自宅でテレビを見ていた学校の担任教諭も驚き、後日、成幸を怒鳴りつけた。本来は照れ屋の成幸がここまでやるかという決意の表れだ。             (敬称略)

 

 

 

 舟木が今から10年前に芸能生活50周年を迎えた際、“50年の想い”について語ってもらった。その時に強く印象に残った言葉がある。「濃尾平野のど真ん中にいた少年が、自分で大した苦労もしないまま、本当に偶然に偶然が重なって歌い手の道に入ったんですね。運命論じゃないけれど、やはり歌を歌うために世に出てきたのかなぁって思います」。

 

芸能生活50周年記念 舟木一夫プレミアムBOX ~ありがとう そして明日へ~