舟木一夫と共に②「歌手」を目指す

 

 舟木一夫が歌手を目指すようになったのには二つの理由、契機がある。一つは13歳違いの実弟・幸正には自分と同じような貧乏体験をさせたくないと強く思ったこと。もう一つは、歌手なら自分でもやっていけると思わせる出来事があったこと。きょうは舟木の小中学生の頃を振り返って、二つのことを具体的に綴ってみる。まずは貧乏体験から━。

 

 上田成幸(舟木の本名)は小学生の頃、父・栄吉の都合で少なくとも4回は転校したり同じ学校に戻ったりしている。当時は家庭訪問がなかったから、成幸の家庭環境を正確に把握している先生はいなかった。ある夏の夕方、成幸が自宅の縁台で夕涼みをしていると、栄吉が全速力で帰ってきたかと思うと靴を履いたまま駆け上がり、タンスの中の現金をわしづかみにして駆け抜いて行った。

 

 追ってきたヤクザ風の男が成幸にピストルを突き付けて「親父はどこだ!!」。「三代続けてヤクザの家系」と冗談で言うだけあって、こんなことで動じる成幸ではない。もちろん詳しい経緯は分からないが、成幸は栄吉がこのまま電車で逃げるつもりなんだと察知し時間稼ぎをして、何とかその場をしのいだ。これだけでも、とんでもない話で、今なら間違いなく警察沙汰だ。

 

 

 それから何日か後、栄吉は成幸を静岡県浜松市の戦友宅に連れて行った。「金を工面してくるので、息子を1週間だけ預かってくれないか」。凄いやり取りだ。成幸は納屋で“一人暮らし”を始め、食事の時だけ母屋で親父の戦友夫妻と顔を合わせていたが、約束の1週間を過ぎるとさすがに気兼ねして、ドンブリにご飯だけもらって納屋で食べるようになった。

 

   納屋にはなぜか醤油と割り箸があった。成幸は考えた。昼間、割り箸をトタンの屋根の上で干ぼししてひび割れさせ醤油を染み込ませ、これをしゃぶりながらドンブリ飯をかき込んだ。舟木にはこんな体験もあったんだ!?!? 栄吉が迎えに来たのは3週間後だった。舟木は「いて座のO型」という言い方を良くするが、要はそれほどのことでは動じないということなんでしょう。

 

 成幸は浜松から萩原町に戻ると、祖母・とめの肩を100回叩くご褒美にハーモニカを買ってもらった。成幸は嬉しくて学校に持って行ってはみんなの前でよく吹いていた。これがきっかけで音楽に目覚め、小学6年生の学芸会ではコーラス隊をバックに♪山は白金…の「スキー」を独唱した。人前で歌って拍手を浴びた最初の体験だったのではないか。

 

 

 中学に進学すると得意な水泳部と音楽部に入った。音楽部は全員女性。担当教諭の北原雅からは「やっと男が来たか。お前が部長だ。やりたいようにやれ」とはっぱをかけられた。気を良くした成幸は自ら勧誘して部員を増やすとともに、バラバラにやっても意味がないと思いハーモニカ・バンドを結成した。

 

 

 栄吉と9番目の母・節との間にはまもなく、成幸とは13歳離れた弟・幸正が生まれた。成幸には養女の姉がいたが、初めての実弟だった。私の取材に対して、成幸の同級生は「シゲちゃんは自転車の前カゴによく弟を乗せて校庭を走って子守りをしていた」と語ってくれた。

 

 

 健気な幸正を見るにつけ、成幸は「幸正には自分のような貧乏の苦労はさせない」と強く思うようになった。そのためには自分はどんな職業に就けばいいんだ。成幸は真剣に考えた。そして、アルバイトをして手に入れたハリー・ベラフォンテのLPを何度も何度も聴いて感動がさめやらないころ、決定的な“事件”が起きた。

GOLDNOTE ハリー・ベラフォンテ "ベラフォンテ・アット・カーネギーホール"(レコード)

 

 

 

 ある日、成幸が友人宅のテレビで某歌手が歌っているのをたまたま見た。成幸は「この程度でもたくさんのお金をもらえるのか。これだ! これしかない!!」と直感し、その瞬間、「歌手」を目指す決心をした。成幸はその歌手のことをよく覚えているが、後々まで口に出すことはない。

 

 それにしても、まだ10代初めの少年がテレビで歌う歌手の歌唱力を判断しただけで将来の自らの仕事を決めてしまえるのか。成幸がその後に素早くとった行動は、そんな大人の疑問をすぐさま打ち消してくれる。それはまた別のところで…。

 

 

 舟木には子供のころ、人生の方向性を決めたといってもいい2人の歌手がいる。三橋美智也ハリー・ベラフォンテだ。舟木はこの何とも接点のなさそうな2人の歌手の共通点を「軽音楽」でくくる。舟木の軽音楽好きは2人との“出会い”から始まったと言っていい。今回は三橋の話を━。

三橋美智也 ベスト CD2枚組 WCD-684

 

 

ベスト・オブ・ハリー・ベラフォンテ

 

 

 舟木が小学4年生のある日、ラジオから三橋の「おんな船頭唄」と「哀愁列車」が流れてきた。舟木は「なんて透明度の高い歌声だろうと強烈なショックを受けた」。その後、舟木と三橋の初対面はいつだったのか本人に確かめたことはないが、舟木が初出場した1963年大晦日の第14回紅白歌合戦には三橋も出演しているので、ここで新人と8回目出場の大先輩との挨拶の機会があったかもしれない。

 

 舟木がデビューして半年ほど経ったある日の暮れ近くだった。仕事を終えてタクシーで帰る途中、ラジオから春日八郎の歌が流れ、次に三橋美智也の歌になった。すると、運転手は突然スイッチを切って三橋の悪口を言いだした。運転手は舟木を乗せていることは承知していたが、舟木の三橋好きは知らなかった。三橋の悪口はしばらく続いた。舟木は聞き流していたが、四谷のアパートに近づいた時だった。

 

― 昭和30年代後半のタクシ car web & レジャーよりー

 

 頭にきた舟木はいきなり「止めろ!」と言ってタクシーを降りた。2人は車の外で大ゲンカになり、舟木はついにタクシーのボンネットに飛び乗ってフロントガラスを叩き割るなど大暴れをした。今だったら、間違いなく器物損壊容疑で逮捕され、新聞にも大きく取り上げられただろう。しかし、相手が売り出し中の人気歌手だったうえ、騒動の原因を作ったのは自分だと思ったのか110番通報はしなかった。

 

 2、3日後、舟木が公演中の新宿コマ劇場の楽屋口に女性が面会に来た。係員が用件を聞くと舟木に謝罪したいという。あの運転手の奥さんで、菓子折りを持っていた。楽屋で話を聞いていると、あの“事件”で夫の運転手は会社から乗車停止処分を受けたという。舟木は責任を感じた。所属していたホリプロを通じてタクシー会社に事情を説明して、乗車停止処分を解いてもらった。実は、この話には後日談がある。

 

昭和35年新宿コマ劇場 Wikiより

 

コマ劇場跡に建設された「新宿東宝ビル」

 

 三橋がこの派手なケンカ劇をどこかで聞いたらしく、舟木に「会って話がしたい」と電話があった。指定された赤坂の料亭で会うと、三橋は「舟木君、主張することは大切だけど、聞く耳を持って相手の立場を理解することも大切だ。とにかく歌手はケンカをしてはいけないよ」と諭した。そんな三橋が1996(平成8)年1月8日に65歳で亡くなった。舟木が“寒い時代”を潜り抜け、着々と復活しつつある時だった。

 

郷愁の三橋美智也

 

   おんな船頭唄

   リンゴ村から

   達者でな

   お花ちゃん

   センチメンタルトーキョー

   おさらば東京

   ギター鴎

   星屑の町

   石狩川悲歌

   東京見物

   雨の九段坂

   俺ら炭鉱夫

   俺は機関手

   母恋吹雪

   おさげと花と地蔵さんと

   赤い夕陽の故郷

   島の船唄

   夕焼けとんび

   ごろすけほう

   岩手の和尚さん

   君は海鳥渡り鳥

   あの子が泣いてる波止場

   おんな

   船頭唄

   古城

   哀愁列車

 

 舟木は1か月後の2月12日と25日、東京と大阪で行われた後援会員のための「ふれんどコンサート」で“郷愁の三橋美智也”と題して、「おんな船頭唄」から「哀愁列車」まで三橋のオリジナル25曲を歌った(上の表)。歌詞は三橋の死後1か月余りの間に全て暗記したのだろう。全て歌詞カードなしだった。最後の「哀愁列車」では、2コーラスまで歌い終えた後、客席に背を向けて涙をこらえた。しかし、3コーラス目は頬を伝う涙をぬぐうこともなく歌い切った。                  (敬称略)

 

三橋美智也 全曲集 おんな船頭唄 夕焼けとんび リンゴ花咲く故郷へ 赤い夕陽の故郷 石狩川悲歌 星屑の町 夢で逢えるさ おさらば東京 流れ星だよ 君は海鳥渡り鳥 お花ちゃん 哀愁列車 NKCD-8001