舟木一夫と共に⑩「偶然」と「運」

   舟木一夫を語る時、4つのキーワードがあると思う。一つのカテゴリーは「時代」と「青春」、もう一つのカテゴリーは「偶然」と「運」。今回は後者の「運」と「偶然」について書く。

 

   上田成幸(舟木の本名)は高校2年の3学期が終わろうとしていた1962年3月のある日、同級生の一人が「今度の土曜日の午後、名古屋のジャズ喫茶で彼女と初めてデートをする約束をしていたんだけど、彼女から急に部活の予定が入って行けなくなったと言われた」。彼はふてくされながら「おい上田、切符が余ったから俺と行かないか」と誘ってきた。同級生は成幸が歌好きであることを知っていた。「ああいいよ」。成幸は興味半分でそう答え、彼女の代役として行くことにした。

 

 

 その日は土曜日だった。当時のジャズ喫茶は生バンドを演奏して聴かせる現在のライブハウスに近いもので全国的に流行っていた。当日のメーンは午後2時開演の松島アキラショー。松島のジャズ喫茶でのショーはオープニングとラストが「湖愁」、間にオリジナルのポピュラーを何曲か挟むという構成だった。この日もいつもの構成通りにショーが進んだ。最後に司会者が「もう一度『湖愁』を歌っていただきます。どなたか松島さんと一緒に歌いたい方はいませんか」と会場を見渡した。


 

 

湖愁~松島アキラ傑作集

 

 成幸と同級生が座っていたのは、ステージからもよく見える前から2列目の席だった。「湖愁」は成幸のお気に入りで、のど自慢番組で歌ってチャンピオンになった歌。松島の生の歌をまた聴けるのかと胸を躍らせていた時、左隣に座っていた同級生がいきなり成幸の左手首をつかみ、ぱっと挙げて「歌いま~す!」。他に手を挙げる客はいなかった。司会者から「じゃあ、そこの君、ステージに上がってください」と促されるまま、成幸はステージに上がった。すぐに歌詞カードを渡されマイクの前に立って歌った。

 

 

   歌い終わって店を出ようとしたところ、成幸は「ちょっとよろしいですか」と1人の男性に呼び止められた。渡された名刺には「週刊明星記者 恒村嗣郎」とあった。松島アキラショーを取材するために東京から同行してきたという。恒村はあまり詳しいことは説明しないまま、成幸に「悪いけど住所と名前、電話番号を教えてくれないかな」と言って紙を差し出した。成幸は憧れのスター・松島と一緒に好きな歌を歌えて気分が乗っていたこともあって、言われるまま渡されたボールペンで書いて渡した。

 

 

   ここまで書いた時点で、①同級生の彼女のドタキャンでライブのチケットを入手した②隣の席に座っていた同級生に突然手を挙げられ歌うことになった③会場に週刊誌の記者が来ていて住所と名前を聞かれ伝えた━と、3つの「偶然」が重なっていることが分かる。

 

 

   恒村は帰京後、「名古屋にものすごく歌の上手い子がいる」と何人かの音楽関係者に話した。その中の一人に堀プロダクション(現在のホリプロ)の社長・堀威夫がいた。当時から、堀には独特の閃きがあった。自分の目で確かめるために夜行列車で名古屋に向かった。成幸の自宅が名古屋だと思ったら、その先だったから時間的に会えないまま帰京した。堀はどうしても成幸の歌声を聞いてみたかったから、恒村から聞いた電話番号のところに電話した。出てきた父・栄吉に要件を伝えた。芸能プロの胡散臭さを知っている栄吉は電話に不信感を抱いた。それは堀にも伝わった。

 

 

 

―    堀威夫・Wikipediaより ―

 

   芸能記者の話を聞いただけでここまで実行する人は少ない。堀のような閃きのある実力者に関心、興味を持ってもらわなかったらどうなっただろう。そう考えると、「偶然」とともに舟木が持つ「運」の力を感じずにはいられない。明日もこの話を続ける。

 

 

                  ◇ 

 

 舟木はデビュー直前にびっくり仰天の体験をしている。冷静な舟木本人というより、周りのスタッフのほうが驚いたというほうが正しいのかもしれない。私も当時その場にいた人を見つけ出して実際の光景を聞くまでは???という感じだったし、聞いた後も???という感じは払拭し切れていない。

 

 ことの発端は1963年3月9日の夜だった。当時、舟木が所属していたホリプロのマネジャー・阿部勇から舟木に電話があった。聞くと、翌日に群馬県大泉町の東京三洋電機(当時)で行われる慰安会を兼ねた文化祭で守屋浩ショーが行われる予定だったが、前座歌手が急性盲腸炎で倒れてしまった。

 

― プロフィール| 守屋浩 | 日本コロムビアオフィシャルサイト ―

 

 「堀威夫社長がデビュー前の度胸試しに君に出てもらったらどうだろうと言っているが、どうする?」というものだった。まだ18歳だった舟木の答えがすごい。「いいですよ。ただ、ギャラをもらうと初仕事になります。こんな形の初仕事は嫌だからノーギャラの助っ人ということなら出ます」

 

 

 当日、指揮棒を振ったのはチャーリー脇野。ホリプロには結成当時から、ゲイ・ポップスのリーダーとして参加していて、舟木のことも知っていたが、口をきくのは初めてだった。チャーリーに聞いたところ、会場には女子社員を中心に2000人以上いたという。

 

 舟木がソデから学生服姿でステージ中央に出てきたとたん、客席の女性からワァーワァーというどよめきが起き、歓声が上がった。「高校三年生」と「水色のひと」を観客の前で初めて歌い終えても、歓声は鳴りやまなかった。チャーリーは「いろんな歌手を見ているが、デビュー前の無名の歌手にあんな歓声が上がったのは本当に不思議な現象だった」。

 

 また、観客席にいた社員のA子さんによると、舟木がステージに立つと怒涛のような歓声が沸き起こり、舟木が歌いながら首を曲げれば「キャー」、下を向けば「ワァー」。「当時は今のように女性が公の場で感情をストレートに表現することがなかったので信じがたい光景でした」。

 

 

 終演後の楽屋前では大勢の女性が舟木を取り囲み、住所を聞いたり、写真を撮ったりの大騒ぎだった。3日後、舟木のもとに同社の女性社員から約300通のファンレターが届けられた。舟木はファンレターの全てに返事を書いていたようで、A子さんが10数年後、舟木後援会の茶話会に出席した際、出席者の一人から舟木から当時送られてきた返事の手紙を見せてもらったという。

 

 

 私はデビュー前の無名の歌手の何とも不可解な人気を三洋電機は社内報で取り上げているのか、どのように報じているのかに興味を持った。同社はその後、社名も所在地も変わっていたが、広報担当者に当時の三洋電機の社内報を何とか探し出してもらいコピーを送ってもらった。

 

 そこには「場所=労働会館。内容=一部・社員発表会、二部・守屋浩ショー。出演者=守屋浩、岡田ゆり子、勝てるみ、舟木一夫。司会=晴乃チック・タック、演奏=チャーリー脇野と楽団・ピーボックス」と記されていたが、舟木を特別取り上げてはいなかった。

 

 「運」の話は次回も続く。

                                  (敬称略)