― 愛知県一宮市 一宮市役所展望台から見る風景 ―
 

舟木一夫と共に③故郷・一宮市萩原町

 

 

 舟木一夫は子供のころ、どんな環境で育ったのか。約10年前に50周年を記念して「舟木一夫の青春賛歌」という本をまとめるにあたり、初めて舟木の故郷・愛知県一宮市萩原町を訪ねた。JR名古屋駅から10分で尾張一宮駅。名鉄尾西線の2両編成の真っ赤な単線電車に乗り換えて4つ目が萩原駅。ここから先は、舟木が上田成幸の名前で作詞・作曲した「ROCK'N ROLL ふるさと」の歌詞にある”道順”通りに歩く。「舟木一夫の生家」という案内板のある長屋を見つけるのに時間はかからなかった。
 
 
 無人だった長屋はその後取り壊され、新しいアパート「ユニヴァリィ フナキ」に建て替えられた。アパートの前には萩原町郷土史研究会(代表・事務局長=金子光二)の会員らによって「舟木一夫 ゆかりの地 跡」という看板(写真㊤)が立てかけられている。さらに金子らは取り壊された長屋の建材を再利用する形で、会員の一人から無償提供された生家跡近くの土蔵を改装。2013年10月に郷土資料館をオープンした。展示品の半分は舟木関連の物で、ファンからは舟木記念館と呼ばれている。
 
 
 資料館の横を尾西線が走っている(写真㊦真ん中)。そして資料館の前には「ロックンロールふるさと」の歌詞が書かれた立派な歌碑も造られており(写真㊦上)、夜は太陽光ライトでライトアップされるという。最近は資料館の室内でライブ演奏もできるようになっている(写真㊦下)。しかし、コロナ禍で資料館を訪れるリピートファンはぱったり止まり、初めてのファンがちらほら見る程度になった。当面は毎月第4日曜日の午前11時~午後3時まで、月一回だけの開館にしている。
 
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 この辺りは濃尾平野のほぼど真ん中にあたり、尾張文化の中心地だったことを物語る遺跡も多く、江戸時代には、交通幹線の一つ、美濃路の萩原宿として賑わっていた。私が訪ねた時は、萩原商店街の通りに江戸時代の名残の格子戸なども残っていた。なぜ、この地が舟木の故郷になったのか。彦根藩の勘定方の血筋を引く祖母・とめが若いころに巡業中の力士と駆け落ちして東京で小料理店を開いた後、親戚を頼ってこの地に落ち着いたのが、上田家と萩原町の縁の始まりになる。
 
― 小牧山城からの眺め(一宮方面)―
 
 
 
 とめは左腕に花札の入れ墨がある”強者”だった。その息子で舟木の父・栄吉は身長165㎝の色男だったこともあり、若い頃に歌舞伎役者を目指したが、とめに反対されて断念。一時は博打打になって一家を構えていた。舟木は冗句でよく話す。「上田家は僕も含めて三代、カタギがいないんです」。栄吉は日中戦争で中国各地を転戦して帰国後、長屋の近くにあった萩原劇場を安く買い取って経営。藤山一郎、霧島昇ら歌手のほか、旅回り一座の芝居、相撲の巡業興行などを行い一時は流行っていた。
 
 
 劇場の横に上田家の住まいがあって、常時4、5人の若い衆がいた。幼少の舟木は「わか」「ぼん」と呼ばれていて、劇場の奈落にあった道具部屋の柳行李から十手、刀、槍などを持ち出して近所の子供たちとチャンバラごっこをしていた。舟木にとって幸運だったのは、劇場がやがて映画館に衣替えしたこと。栄吉の顔で他の映画館でも顔パスだったため、当時の中村錦之助らが出演した東映の「笛吹き童子」(昭和29年)や「紅孔雀」(同30年)など印象に残る時代劇に接することが出来た。
 

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 この時に得た時代劇の知識が後の東京・新橋演舞場や大阪・新歌舞伎座、京都・南座などでの舟木組による娯楽時代劇にも生かされていくことになる。
                                  (敬称略)
 
 
 使用した写真は全て金子撮影によるもの。金子によると、御園座で行われる舟木の凱旋コンサートの前後には、地元の舟友有志が特別に資料館を平日開館して受付を担当する。舟木関連の資料は終活で持ち物を整理したファンから提供されたという。
   <問い合わせ先=萩原町郷土史研究会  hagiwaracho@gmail.com>