舟木一夫と「チャペルに続く白い道」

~2023.4.25中野サンプラザでの選曲~

 

チャペルに続く白い道 (クラシックCD付)

 

 舟木一夫さんが2023年4月25日に東京・中野サンプラザで行ったラストコンサート第一部「輝さんのおもかげ」の7曲目に選んだのは、1964年4月15日にリリースされた西郷輝彦さんの2枚目のシングル「チャペルに続く白い道」(作詞・水島哲、作曲・北原じゅん)でした。“青春歌謡”そのものです。

 

 西郷さんはデビュー曲「君だけを」以来シングル6枚目の「君と歌ったアベマリア」まで、「作詞・水島哲、作曲・北原じゅん」の曲を歌ってきました。その後も「から松林の別れ道」や「この虹が消える時にも」など2人のコンビの曲を何曲か歌っています。本人の意思に関係なく、西郷さんという歌手を形作ってしまいましたね。

 

【EP】 西郷輝彦「 君だけを/ひとりぽっち」

 

君と歌ったアベマリア [EPレコード 7inch]

 

から松林の別れ道 (クラシックCD付)

 

この虹の消える時にも (クラシックCD付)

 

 

一  チャペルに続く白い道

    ネムの並木のこの道は 

   野原を越えて鐘の音は

   雲の彼方に消えていく

    あしたも二人で歩こうね

   チャペルに続く白い道

 

三  暗く貧しいすぎた日も

  心の中はいつの日も

   明るくすんだ鐘の音に

  明日の幸せ夢みてた

   思いのすべてをこめた道

  チャペルに続く白い道

 

 

 

 

 「ネムの並木」というと、私は高峰三枝子さんの「南の花嫁さん」(1943年。作詞・藤浦洸、編曲・古賀政男) の♪ねむの並木を お馬のせなに ゆらゆらと…を思い浮かべてしまいます。こんな歌知ってる!? ホントに古いですね。

 

おかあさん/南の花嫁さん

 

 資料によりますと、水島さんは宮城県仙台市出身。本名は安倍亮一さん。早稲田大学理工学部在学中から音楽業界に入り、1958年に平尾昌晃さんの「星は何でも知っている」で作詞家デビューしたという変わり種です。どういう経緯で平尾さんと出会ったのかは分かりません。

 

 

 

 

 しかも、この後に読売新聞社に入社して文化部記者として音楽関係の記事を書きながら、作詞家活動も行っていました。作詞家に専念しなかったんですね。読売新聞を退職後はフリーの音楽評論家になり、2015年6月27日に大腸がんのため亡くなりました。86歳でした。

 

 詞の内容を見ると、間違いなくロマンチストです。もっとも、当時の青春歌謡は“純な気持ち”を持ち合わせていないと書けなかったと思いますね。布施明さんの「霧の摩周湖」(作曲・平尾昌晃)、三田明さんの「恋人の泉」(作曲・𠮷田正)なども作詞しています。

 

霧の摩周湖

 

恋人の泉 (MEG-CD)

 

 そう言えば、作詞家・丘灯至夫さんも毎日グラフの記者と作詞家との二足の草鞋で、都内の高校を取材中に、男女の学生がフォークダンスを踊る姿を見て、♪僕ら フォークダンスの手をとれば…という「高校三年生」のフレーズが頭に浮かんだといいます。

 

 ところで、西郷さんは著書「風の口ぶえ」(1974年5月10日発行)の中の「音楽との闘い」の項で、そういう青春歌謡と言われる歌謡曲との葛藤について次のように書いています。少し長くなりますが引用します。

 

 

 北原じゅん先生の門下生としてレッスンをはじめ、二カ月たった頃でも、自分は本当に好きなのかいったい何をやりたいのかさえもわからなかった。ただ、有名になりたい、それだけの気持ちで、北原学校の門をたたいたのだ。つまり歌謡曲をうたうということは、将来ポピュラーをうたうための、ふみ台だと…(きびしい考え方かもしれないがじぶんなりにそう決めていた)しかし、レッスンは日増しに、きびしさを加え、歌謡曲のむずかしさは、この二年の間に、僕が得た自信を、無残にも一つ一つこわしていった。歌謡曲とは僕にとってそれほどむずかしいものだったのだ。

 

 

 この後、西郷さんは浜口庫之助さんとの出会いなどを語っていますが、「星のフラメンコ」のところで紹介しようと思っています。