― 鹿児島県 鹿屋市 荒神天神 ―

西郷輝彦さんの一周忌を前に㊦

 声を完全に芝居役者のものに仕立て上げていた西郷輝彦さん。もう歌手に戻ることはないと覚悟を決めていたんでしょう。それほど「役者」にのめり込んでいた西郷さんでしたが、舟木一夫さんのある事がきっかけで“歌手復帰”を目指すことになります。三田明さんも京都で約8年間撮っていた日本テレビ系の時代劇「長七郎江戸日記」が終って東京駅に帰り着いた時、「これから歌手に戻れるんだと思った」と書きましたが、同じようなことが起こります。

 

 

 1992年12月4日付の各スポーツ紙は「舟木一夫 21年ぶりに紅白出場」と大きく報じました。東京・新宿コマ劇場で公演中だった舟木さんは、このニュースが入るなり司会の玉置宏さんにマイクを向けられ、「30周年の区切りの年の朗報に感謝します」と約2300人のお客さんに挨拶すると大歓声が沸き起こりました。通算10度目の紅白歌合戦出場は、NHK「思い出のメロディー」のアンケートで「高校三年生」が2年連続で第1位に輝いたのが後押ししたようです。

 

 

 舟木さんの紅白出場は、1971年の第22回紅白歌合戦で“最後のヒット曲”と自認する「初恋」を歌って以来です。21年ぶりの第43回紅白歌合戦には10番目に登場。舟木さんは女学生の大合唱団をバックに「高校三年生」を歌いあげました。私には会場からの拍手は他の歌手より大きかったように感じました。舟木ファンは誰もが涙なしに見ることは出来なかったと思います。今でも約30年前のその光景が昨日のことのように思い起こされます。

 

― 第43回紅白歌合戦 NHKアーカイブスより ―

 

 西郷さんも自宅のテレビで「高校三年生」を歌う舟木さんの雄姿を見入っていました。「嬉しくてポロポロ涙を流していたら、横で見ていたお袋が『舟木さんを見て涙を流していないで、あんたもちゃんとやらないとダメだよッ』って怒るんですよ」(西郷さん)。西郷さんはすでに押しも押されもしない「役者・西郷」を確立させていましたが、母親にしてみれば、歌手を目指して家出までしたわが子ですから、舟木さんとダブらせて「歌手・西郷」の姿をもう一度見たかったんでしょうね。

 

― 桜島の日の出 ―

 

 西郷さんは“寒い時代”から復活しつつある舟木さんの姿を目の当たりにするとともに、最愛の母からのこの一言で本格的に歌手復帰を考えます。歌手活動の再開に当たっては、役者の声から歌手の声を取り戻すために、7人のボイストレーナーに声帯のチェックをしてもらいました。私は“7人のボイストレーナー”の話を西郷さんから伺った時、何事にも真剣かつ徹底的に取り組む西郷さんらしいと思いました。本気でなければ、なかなか出来ないことです。

 

 

 そうした努力は、1993年9月21日にリリースした転機の曲「別れの条件」(作詞・荒木とよひさ、作曲・都志見隆)に結実します。翌1994年の芸能生活30周年の年は、この歌で歌手活動を再び本格化させました。舟木さんも30周年を機に「同世代だけに通じる歌手」を誓い、“寒い時代からの完全復活”に乗り出していますから、不思議な縁を感じますね。

 

   2000年6月1日、西郷さん(53歳)は元祖御三家の橋幸夫さん(57歳)、舟木さん(55歳)とともに、東京・新橋の第一ホテルで記者会見し、初めてのユニット「G3K(ゴサンケ)」を組み、10月6日の東京国際フォーラム・ホールAでのコンサートを皮切りに、2001年12月25日まで全国100か所で「G3Kメモリアルコンサート」を行うと発表しました。もちろん、玉置宏さんが司会をされていました。

 

『近代映画』特別編集 御三家メモリアルフォトブック―21世紀へのステップ

 

 3人一緒の活動は約30年ぶりでした。同じような企画は10年ほど前から出ては立ち消えになっていましたが、完全復活した舟木さんがけん引役になり、西郷さんも乗り気になって実現しました。8月23日には新ユニットによる初のCD「小さな手紙」を3人の所属レコード会社がそれぞれ別バージョンでリリースし、8月と9月のNHK「みんなのうた」でも放送されました。なかなかの企画力です。

 

小さな手紙

 

 西郷さんは2003年に40周年の記念コンサート「西郷輝彦VICTORY」を全国で40公演行い、2009年には45周年の記念コンサートを1月20日に昼夜2回にわたって東京・日比谷公会堂で開いています。そして、2013年にはデビュー曲「君だけを」の発売日と同じ2月15日に、自身で作詞した50周年記念曲「燃えろ夜明けまで/夜空を走り抜けて」をリリースしました。私のインタビューに以下のように答えています。

 

 「ここ1、2年のことですが、音楽と芝居は別のものじゃないと思うようになってきたんです。作詞、作曲は楽しい作業だから続けていきたい。役者としては等身大の自分の役をきっちりやりたい。山田洋次監督の映画にも出てみたいし、近い将来には映画監督として温めているテーマを映像化したいですね」

 

西郷輝彦 全曲集~燃えろ夜明けまで・君だけを~

 

 そして、2010年4月23日、今度は舟木、西郷、三田の“幻の御三家”で、愛知県芸術劇場でコンサートを開催。翌年の2011年には、「BIG3 SPECIALCONCERT 2011」と銘打って、5月27日の千葉県文化会館を皮切りに東日本大震災の被災者ための募金活動も併せた全40公演の全国ツアーを行いました。約50年ぶりに長いステージを共にした3人は“気の合う仲間”を実感し、この時点で再度やろうという暗黙の約束があったのだと思います。

 

 

 西郷さんが前立腺がんであることが分かり全摘手術を受けたのは2011年の全国ツアーの後でした。その後は再発することなく、歌手・役者活動に専念することができました。2012年8月に東京・三越劇場で「明日の幸福」に出演し、2013年5月には福岡・博多座で原作・橋田寿賀子、演出・石井ふく子の「女たちの忠臣蔵」で大石内蔵助を演じています。晩年は“石井ファミリー”の一員として舞台に立つことが多く、2017年2月に一路真輝さん、竹下景子さんらと東京・三越劇場と大阪・新歌舞伎座で行った「君はどこにいるの」が最後の舞台になりました。

 

 3年前の暗黙の約束通り、「青春歌謡 BIG3 2014」と銘打って、2014年4月4日の神奈川・川崎市教育文化会館を皮切りに、12月20、21日の大阪・新歌舞伎座まで計50か所で100公演を完走しました。私も4月17日に千葉県文化会館で行われた公演に足を運びました。舟木さんは「1人でやる時より気を遣うんですよ」と、楽屋の垣根を超えて2人に声をかけ、和気あいあいの雰囲気を作っていました。会場は息の合った3人のトークも含めて、懐かしい歌の数々を聴き青春時代にタイムスリップしたかのような熱気に包まれていました。

 

 

 それから3年後の2017年11月に前立腺がんが再発し、2021年4月にはステージ4であることが公表されました。医師からは緩和治療を勧められますが、西郷さんは国内では未承認の最先端治療を受けるためにオーストラリアに渡りました。そして、8月には日本テレビ系のチャリテイー番組「24時間テレビ」に現地から生出演して、「奇跡は起こります」と元気に報告していました。

 

 

 西郷さんは2019年12月、初めて舟木さんと2人きりで2時間くらい、東京・赤坂の中華料理店で食事をしながら語り合いました。2人は3か月に1回くらい電話で話すうち、西郷さんが「55周年のコンサートを是非やりたいので出演してほしい」と舟木さんに相談します。舟木さんは西郷さんから体の調子のことも聞かされていたので、「是非手伝いたい」と話を進めました。しかし、2021年に決めていたスケジュールは新型コロナの影響で延期になってしまいました。

 

 

 満を持して翌2020年3月19日に東京・中野サンプラザで舟木さんが友情出演という形で開くスケジュールを押さえたものの、またコロナで中止になりました。 舟木さんによると、西郷さんはその頃はすでに体がきつかったようで、「丸々半日集中するのはしんどい」と相談されたため、「今度は2部構成にして俺がつなぎでちょこちょこ顔を出すから、何とかやろうよ」と励まし、再々チャレンジの準備を進めましたが、西郷さんの体調と会館が空いている日を合わせることが出来ませんでした。

 

 

 西郷さんはひどく残念がっていたそうです。当然ですね。しばらくして舟木さんが電話したら、「今、治療のためにオーストラリアにいます。8月半ばには帰れると思います」ということだったため、舟木さんは帰ったら一報するよう伝えました。しかし、9月になっても10月になっても西郷さんからの連絡はありませんでした。「状況がいい方向に向いているとは考えられませんでした」(舟木さん)ので、舟木さんの方から連絡するのは遠慮していました。

 

 

 舟木さんは西郷さんの訃報を事務所から知らされました。家族のことを思ってすぐには駆けつけず、49日の法要が終った後、奥さんに電話して自宅で西郷さんに会いました。言葉は出ませんでした。帰りがけに奥さんから西郷さんが使っていたタイピンを渡されました。西郷さんが亡くなった後、舟木さんはテレビ朝日系の「徹子の部屋」に出演し、「ステージで歌えている有難さが身に染みてきている。彼が悔しかった分、俺が頑張ろうという感じになっています」と話しました。

 

― 鹿児島の県鳥 ルリカケス ―

 

 西郷さんが生まれたのは1947年2月5日、「君だけを/ひとりぽっち」でデビューしたのが1964年2月15日。75歳で亡くなったのが2022年2月20日。なぜか「2月」に縁があります。そして、後の2つの日は間もなく訪れます―。