― 桜島と鹿児島の県花・ミヤマキリシマ ―

 

西郷輝彦さんの一周忌を前に㊤

 

 西郷輝彦さんが2022年2月20日、前立腺がんのため75歳で亡くなって間もなく一周忌を迎えます。西郷さんとはコンサートの楽屋やパーティー会場などで何回かお会いし、比較的長い時間のインタビューもさせていただきました。物腰が実に柔らかで、いつも丁寧な対応をしていただき、“紳士的”という言葉が相応しい方という印象を抱いています。一周忌を前に、西郷さんを偲びたいと思います。

 

 

 私は2022年6月5日(6月5日は舟木一夫さんのデビュー日)にこのブログを始めて以来、ずっと舟木さんのこと、舟木さんにまつわる方々のことを綴ってきました。そんな中でも西郷さんは舟木さんにとって特別な方です。歌手としては後輩にあたる西郷さんを、親しみを込めて「輝さん」と「さん」付けで呼び、人生の「盟友」と言って憚りませんでした。舟木さんと同じように“波乱万丈”の人生だった西郷さんの75年を振り返ります―。

 

生き方下手

 

   西郷さんは父・今川盛智さん、母・フサ子さんの4人の子供(兄2人、姉1人)の末っ子として、1947年2月5日、鹿児島県谷山町(現・鹿児島市)に生まれました。盛揮(せいき)と名付けられました。父親の盛智さんは鹿児島県出身ですが、大きな呉服店の北九州支店を任され“単身赴任”していました。宮崎県の帽子屋の娘として大きな屋敷に住んでいたフサ子さん宅にも営業で回り出入りしているうちに恋仲になり、2人は駆け落ちして鹿児島で結婚しました。西郷さんは2人の駆け落ち結婚について、「かっこいい」と言っています。

 

 盛揮少年は鹿児島市立谷山小学校に通っていましたが、2年生まで同い年のシンガーソングライター・吉田拓郎さん(下の写真)も在籍していました。盛揮少年が同小3年(9歳)の時、水泳や自転車、野球などを教わっていた次兄・雅博さんが熱中症で死亡、市立谷山中学3年(15歳)の時には地元でジャズドラマーとして活動していた長兄・勝晶さんを釣りボートの転覆事故で亡くします。音楽に興味を持っていた盛揮少年は、長兄から様々な洋楽を聴かされ「一緒にバンドを組もう」と勧められます。それ以来、盛揮少年は長兄の遺志を生かさなければならないと考えるようになりました。

 

GOLDEN☆BEST 吉田拓郎~Words&Melodies~

 

 進学した市立鹿児島商業高校ではブラスバンド部に入部。1962年に野球部が夏の甲子園に出場を決めた際、ブラスバンド部の一員として応援のため大阪に行きます。順々決勝まで進みますが、盛揮少年は試合後に宿舎に戻った後、大阪のジャズ喫茶「ナンバー一番」に出向き、プロの歌や演奏を聴いて「これなら俺にも出来る」と自信を持ちました。ある日、神戸の知り合いを頼って家出することを決意。「母さん、行ってくるからね」と告げると、母親の返事は「どこへ行ってもいいけれど、晩御飯までには帰って来るんだよ」でした。本気にしていなかったんですね。

 

― 鹿児島商業高校 ―

 

 盛揮少年は手元の6000円で西鹿児島駅から汽車で神戸駅まで行きますが、頼りにしていた知り合いは勤務先を変えて転居していました。帰るに帰れず、大阪、京都、名古屋のジャズ喫茶で下働きをしているうち、松島アキラさんらが所属していた竜巳プロダクションの相澤秀禎さんにスカウトされ、相澤宅に居候します。ある時、東京・浅草のジャズ喫茶「新世界」で歌い終えた時、コロムビアレコードの長田幸治さんに呼ばれ「レコードを出してみないか」と声をかけられます。長田さんはコロムビアから枝分かれするクラウンレコードの新人を発掘しているところでした。

 

 盛揮少年が「どういう曲を歌うんですか」と聞くと、長田さんは「今、舟木一夫っていう歌手が凄い人気だろう。あの路線で君らしいものを歌ってほしいんだな」。「いや、それはちょっと…。今みたいにロックを歌いたいんです」。「一発当てれば、あとは君の好きなようにやれるから」。という流れで、17歳の1964年2月15日、クラウンレコードの新人歌手第1号として「君だけを/ひとりぽっち」(作詞・水島哲、作曲・北原じゅん)でデビューします。たちまち60万枚の大ヒットになりました。芸名の「西郷」はもちろん、郷土の英雄・西郷隆盛から拝借したものです。

 

君だけを / 西郷輝彦 (CD-R) VODL-34724

 

 西郷さんは「君だけを」と「十七才のこの胸に」で日本レコード大賞新人賞を受賞しますが、女性は「アンコ椿は恋の花」が大ヒットしたコロムビアレコードの都はるみさんでした。西郷さんは授賞式に出たその足で第15回NHK紅白歌合戦にも「十七才のこの胸に」で初出場しました。デビュー当時のニックネームは「太陽の王子」でしたが、そういうことには関心が薄かった西郷さんにしてみれば“迷惑な命名”だったのではないでしょうか。

 

十七才のこの胸に[EPレコード 7inch]

 

(EP)都 はるみ/「アンコ椿は恋の花」 「恋でゴザンス港町」 【中古】

 

 西郷さんは男前の顔、抜群のスタイルも手伝って、出す歌出す曲が相次いで大ヒット。やがて橋幸夫さん、舟木さんとともに「御三家」と呼ばれるようになります。西郷さんは自身のヒット曲の中でも一番納得していたのが1966年7月1日発売の「星のフラメンコ」(作詞&作曲・浜口蔵之助)でした。浜口さんらスタッフとスペイン・マドリードで4日間、本場の劇場でフラメンコを見続け、帰国後に浜口さんが一気に書き上げた曲でした。西郷さんは後に「今までにない歌謡曲で、絶対売れると思った」と語っています。

 

星のフラメンコ (クラシックCD付)

 

 

 しかし、西郷さんは大ヒット曲を出した歌手の誰もが陥るように、やがて「自分がどこに立っているのか分からなくなり、人前に出るのが怖くなってきました」。阿久悠さんや村井邦彦さんらと出会って“自分の音楽”の方向が見えてきたものの、グループサウンズの台頭などで存在感が薄れていきました。第15回から第24回まで連続10年出場してきたNHK紅白歌合戦も落選します。西郷さんはたまらなく悔しくて、「紅白は自分から降りたんだ」と自分に言い聞かせていたそうです。

 

 舟木さんは十数年の“寒い時代”の中でも、アルバム「WHITE」をリリースするなど“歌手”を忘れることはありませんでしたが、西郷さんは大転身をします。1972年2月に大阪・梅田コマ劇場で1か月公演を行った際、芝居「おけら火」の脚本を劇作家の花登筐さんが書きましたが、西郷さんの演技を見た花登さんはいたく感心し、自ら書き上げた「どてらい男(やつ)」の原作本を持ってきて、「主人公の山下猛造をやってみないか?」と声を掛けます。これが転身のきっかけでした。

 

どてらい男 立売堀界隈―第1巻 立志篇

 

 ところで、1972年2月と言えば、西郷さんが両親の猛反対を押し切って、ドラマで知り合った辺見マリさんと結婚した年です。ここにも西郷さんの心機一転の覚悟が見えます。2人は娘1人(タレントの辺見えみりさん)、息子1人(ミュージシャンの辺見鑑考さん)をもうけますが、1981年に離婚します。西郷さんは1990年に事務所に勤務していた19歳下の明子さんと再婚し、3人の娘(1人は女優でイラストレーターの今川宇宙さん)に恵まれました。計5人の娘、息子の父親なんです。

 

― 週刊女性PRIMEより ―

 

 話を戻します。西郷さんは花登さんとの巡り合いについて、「花登筐先生と出会い、関西テレビ系で『どてらい男』をやらせていただいたのは渡りに船という感じでしたね。その頃はもう自分は役者だという感覚でいましたから、音楽番組にはほとんど出なくなっていたんです」と、私のインタビューに答えていました。軸足を歌手から役者に移しつつあった時でした。だから、“渡りに船”という言葉を使われたのが印象的でした。

 

どてらい男(やつ) / 西郷輝彦 (CD-R) VODL-34886

 

 西郷さんは周囲の反対を押し切り、頭を丸刈りにして挑戦しました。「どてらい男」は1973年から1977年まで放送され、最高視聴率は35.2%でした。1974年以降は東京、大阪、名古屋で舞台化されますが、またまた“運命の人”に出会います。大阪・梅田コマ劇場で「どてらい男」を上演していたところ、次の舞台の稽古をしていた大先輩の俳優・森繁久彌さんから「変なやつがいるぞ」と興味を持たれ、「いっぺん俺の芝居を見に来なさい」と声をかけられました。

 

― 森繁久彌 日本コロンビアオフィシャルサイトより ―

 

 

 西郷さんは言われた通り、名古屋で行われていた森繁さんの公演「浪速の花道-曾我廼家五郎・十郎物語-」を観に行きますが、森繁さんの演技に圧倒され、「俺は何をしていたんだ。これが芝居だ」「俺はもう恥ずかしくて芝居なんか出来ない」と思い、すぐに森繁さんが宿泊していたホテルまで出向き、「僕を森繁さんの舞台に出してくれませんか」とお願いしたそうです。森繁さんは最初はウンとは言いませんでしたが、西郷さんのあまりの熱意に押され、ついに了承して“森繁ファミリー”の一員に迎え入れました。西郷さんはそこで「演技」を叩き込まれることになりました。

ありがとう西郷輝彦さん

 

 森繁さんの教えもあって、「役者・西郷輝彦」が高く評価されるようになります。その後、TBS系の「江戸を斬るⅡ」で遠山金四郎役に抜擢されてからは、「声も完全に芝居役者に仕立てていきました」と西郷さん。この時代劇で京都映画祭新人賞を受賞します。第4シリーズの初回には最高視聴率36.7%を獲得。結局、1975年11月から1976年5月まで続くことになり、西郷さんの代表作の一つになりました。

 

江戸を斬る II [DVD]

 

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 どっぷり芝居にはまり込んでしまった西郷さん。もう歌手には戻ってこないと思われていましたが……。

 

アクター ~西郷輝彦55周年記念ベスト・アルバム~

 

― 鹿児島の県花・ミヤマキリシマ ー