三田明さんのこと㊤

 

 

 

 2023年2月1日は、NHKが1953年2月1日に日本で初めてテレビ放送を開始して70年の節目の日でした。舟木一夫さんと三田明さんが歌手デビューするのは、それから10年後の1963年です。まだモノクロが主流でした。当時のNHKの人気番組は「事件記者」「若い季節」「花の生涯」などのドラマで、夜の家族の団らんがテレビ中心だったことを物語っています。NHK紅白歌合戦の視聴率に至っては81.4%でした。テレビは映画に代わって「娯楽の王様」になった年という言い方もできそうです。

 

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 そういう意味では、舟木さんも三田さんもまさに“テレビ時代の申し子”です。テレビの時代の歌手には“見た目の良さ”も欠かせませんでした。舟木さんが「高校三年生/水色のひと」(コロムビアレコード)でデビューしたのが6月5日、三田さんは4か月後の10月10日に「美しい十代/千羽鶴」(ビクターレコード)で続きました。2人とも“見た目の良さ”というテレビ時代の必要条件を整えていましたから、あっという間に女性ファンの“アイドル”になりました。

 

 

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 三田明こと辻川潮さんは1947年6月14日、東京都昭島市郷地町で、兄4人、姉3人の8人兄姉の末っ子として生まれました。隣の立川市の米軍基地が郷地町まで延びていて、アメリカの軍人からチョコレートやガムを投げてもらって校長先生によく叱られたそうです。辻川少年が音楽と出合うのは昭島市立昭和中学の時。1年生の担任がアルバイトでハワイアンバンドのスチールギターを担当するほどの音楽好きでした。舟木さんも中学の先生に恵まれましたね。

 

 

 辻川少年はある時、担任の先生から「音楽同好会を作らないか」と誘われ編成します。文化祭の時に講堂でニール・セデカの「恋の片道切符」を歌ったら、会場の女生徒から大歓声が上がりました。そんな姿を知っていた3男が辻川少年が中学2年の夏、出演者を募集していた日本テレビのオーディション番組「ホイホイ・ミュージック・スクール」に勝手に応募。すぐに連絡があり、1次、2次審査とも受かり、合格通知が届いたと言います。

 

 番組にレギュラー出演しまもなくホイホイスクールに合格して入学。布施明さん、山本リンダさんらが同窓生です。中学3年の春、東洋企画プロダクションに所属することになりました。辻川少年はまだ18歳未満でしたが、東洋企画が持っていたジャズ喫茶「銀座ACB(アシベ)」に裏口から入って先輩が歌うのを見学するチャンスを得ました。中学の先生と出席日数を調整しながらホイホイスクールと「銀座ACB」で歌の勉強を続けることになります。

 

 転機は私立八王子高校1年の1963年5月ごろ。コロムビアから現役の高校三年生で18歳の少年(舟木さん)が6月5日にデビューするという情報をビクターの担当者が事前に察知し、慌てて舟木さんに対抗する歌手を探し始めました。ところが、舟木さんのデビュー曲「高校三年生」がいきなり大ヒットして大騒ぎになったため、もう少し時間を見ていたさすがのビクター関係者も焦ったようです。早速、辻川少年に白羽の矢が立ちました。

 

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 辻川少年はすぐに東京・築地のビクタースタジオに来るよう呼び出され、その場でビクターのオーディションを受けました。2日後には作曲家の𠮷田正さんに初めて会います。その席でビクターとの専属契約が結ばれ、9月にレーディング、10月にデビューすることが決まりました。作詞・宮川哲夫、作曲・𠮷田正によるデビュー曲「美しい十代」はすでに出来上がっていました。なんという手際の良さでしょうか。辻川少年には驚きの連続だったと思います。

 

美しい十代

 

 辻川少年は10月のデビューに向け7月から8月にかけての2週間くらい、𠮷田さんの自宅に通い、応接室の隣にあったレッスン室のピアノの左横で約1時間の指導を受けることになりました。三田さんは後に「このレッスン室はフランク永井さん、吉永小百合さん、橋幸夫さんら諸先輩が𠮷田先生から教えを受けられたところで、最初はもう舞い上がってしまって、その頃のことをはっきり覚えていないんですよ」と話してくれました。

 

吉田正自撰77曲(下)

 

 デビュー曲「美しい十代/千羽鶴」のレコーディングは1963年9月10日午後1時から、東京・築地のビクター築地スタジオに𠮷田さん、作詞の宮川さん、ビクターの制作関係者、バンドの人たちが集まり、関係者以外は完全シャットアウトして行われました。先行している舟木さんに対抗する“秘密兵器”(ビクター)ということで、全てが極秘扱いになっていました。マスコミ関係者は、ビクターが何やら秘密裏に動いていることはキャッチしていたようです。

 

 芸名をどうするか。当時の歌謡界は三波春夫、三橋美智也、三船浩、三橋達也さんら「三」が縁起がいいということで、頭に「三」を付け、𠮷田さんの「田」と合わせて「三田」。上はすぐ決まりましたが、下は本人の明るい人柄の「明」に先輩の橋幸夫さんの「夫」を付けて「明夫」という案がありましたが、何かすっきりしないということになって、「明」だけにしようと「三田明」に決まりました。安易と言えば安易ですが…。

 

 極秘裏にレコーディングが終ると、今度は打って変わって大PRに乗り出します。9月18日午後1時から、同じビクター築地スタジオで、ビクターの常務、邦楽部長らと𠮷田さん、三田さんが出席して、当時としては全く異例のデビュー記者会見を行いました。報道陣は約30人。翌日の新聞には「“秘密兵器”の正体は16歳の三田明。歌は若々しく健康的な作品」と報じられました。新聞各紙の書きっぷりからも、極秘作戦は大成功でした。

 

 三田さんの取材用・宣伝用の写真は、𠮷田さんの知人で写真家の秋山庄太郎さんが撮りました。撮影後、秋山さんは「三田明君は最近見た少年の中でもっとも美しい顔と姿態の持ち主」と絶賛しました。有名写真家のその話が“日本一の美少年”という評価に繋がって行きました。また、人気作家の三島由紀夫さんは「三田明には昭和天皇にはないエロティシズムを感じる」と話しました。2人の作家の発言で、「三田明」の名前が一気に全国区になりました。

 

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