忘れられない人々

 高校三年生になったばかりの上田成幸は歌手を目指して1962(昭和37)年5月14日に単身上京した。17歳だった。上京後、デビューまでのキーパーソンは、(1)ホリプロ関係者、(2)施設応援団関係者、(3)日本コロムビアなど音楽関係者―の大きく3つに分けることが出来る。忘れられない人々だ。

 

 (1) 社長・堀威夫、マネジャー・阿部勇、マネジャー・佐々木国雄

 (2) 巨人軍私設応援団長・関矢文栄、銭湯「梅の湯」の主人・田中慶一、直木賞

 作家&演劇評論家・安藤鶴夫、歌舞伎俳優・10代目岩井半四郎

 (3) 作曲家・遠藤実、作詞家・丘灯至夫、ディレクター・栗山章、指揮者・チャ

 ーリー脇野

 

 

 上の方々に付け加えるとすれば、成幸と堀をつないだ週刊明星記者・恒村嗣郎だろう。恒村は名古屋のジヤズ喫茶で成幸の歌唱力を最初に見抜いたキーパーソンと言える存在だ。上京後に成幸と恒村の接触があったのかどうかは資料に残っていないが、舟木一夫はデビュー当時を語るとき、必ず恒村をフルネームで紹介している。

 

 ホリプロ(当時は堀プロダクション)は、上京後の成幸の住まいや学校など生活の基盤を固める役割を果たしている。生活の拠点は阿部が住んでいた新宿区若葉町の2階建てアパート「青葉荘」。表札は「AOBASO」で、2畳敷きの板の間に3畳間と6畳間があったが、成幸は3畳間に居候した。布団はすでに一宮市から両親が送っていた。学校は目黒区の自由ヶ丘学園高校の3年生に編入した。

 

―新宿区若葉の東福院坂(天王坂)から望む須賀神社方面―

 

 私設応援団として最初に名乗りでたのは、関矢と田中。関矢は「いまどき珍しく純情な青年・成幸」に惚れ込み、町内の著名人らに応援を呼びかけた。田中は成幸が舟木一夫としてデビュー後には銭湯の番台などにスケジュールを貼り、サインも受け付けるなど活躍した。また、安藤は若葉町あげての応援を「まことに心温まる町の物語」と記し、岩井は舟木の後援会が発足した際に祝いの「黒田節」を舞った。

 

 

 堀が成幸の話を日本コロムビアに持ち込んだ際、馬渕玄三と並ぶ敏腕ディレクターと言われた斎藤昇が「私が引き受けましょう」と受け入れ、担当ディレクターに28歳の新人・栗山を大抜擢した。人生は分からないもので、斎藤の一言で栗山&成幸という名コンビが運命的に出来ることになった。福岡市出身の栗山は父親が高分子化学の権威で九州大学名誉教授ということもあって、歌謡曲の世界は全く考えたことがなかった。成幸との出会いがなかったら、この世界に馴染まなかっただろうと思う。

 

 舟木がのちに舞台でも演じることになる藤田まこと&白木みのるによる「てなもんや三度笠」の放送がTBS系で始まったのが1962年5月6日。「あたり前田のクラッカー」は流行語になった。また、7月29日に公開された植木等主演の東宝映画「ニッポン無責任時代」が大ヒット。植木は“無責任男”をキャッチフレーズに多くの映画に出演するとともに作詞・青島幸男の「スーダラ節」や「ドント節」などをヒットさせた。“わかっちゃいるけどやめられない”や“サラリーマンは気楽な稼業”なども流行った。舟木はこの頃の植木の一連の歌を「日本の名曲」としてステージでも歌った。

 

― 1961年の藤田まこと Wikipediaより ―