1951年4月1日

 

 上田成幸は1951(昭和26)年4月1日、愛知県一宮市立萩原小学校に入学した。1年生のある日、学校から帰ると家の中がガラーンとしていて、母・雅子の姿がなかった。父・栄吉が借金の保証人になって映画館を手放して家財道具も売ろうとした時、雅子がいち早く金目の物を実家に送っていたことが発覚して別れ話が出ていた。成幸は“この日”を予感していて驚きはなかった。

 

 これ以降、小学2年生から6年生までに8人の“母親”が現れては消えていった。1泊2日の女性、掃除ばかりする女性、一生懸命家計簿を付ける女性…。いずれも個性的な女性ばかりで、一番長い女性は1年半続いた。この間、“母親”が一時途切れる時期もあった。成幸は4年生の時に実母に引き取られることもあったが、長続きせず貧しい生活を送っていた。この時期は極貧と言ってもよかった。

 

 成幸は小学生時代、“母親”に振り回されて学校を4回転校している。再び萩原町に戻ってきた時、祖母・とめから“100回肩たたきのご褒美”としてハーモニカを買ってもらい、嬉しくて学校に持って行ってみんなの前でよく吹いていた。成幸はこれがきっかけで音楽に目覚めたようで、学校で流行っていたソフトボールには興味を示さなかった。

 

 

 成幸が6年生の1956年7月15日、栄吉は9番目の母・節と正式に結婚した。成幸が三橋美智也に出合うのはそんな時だった。ラジオから流れる「おんな船頭唄」や「哀愁列車」を聴いて「なんて透明度の高い歌声だろう」と子供ながらに強烈なショックを受けた。のちに魅了されることになる米国の黒人歌手、ハリー・ベラフォンテ(下の写真)とともに歌手に目覚める契機を作ってくれた。

 

― 1954年撮影 ―

 

 1951年を振り返ると、1月3日⇒NHKが「第1回紅白歌合戦」を放送/3月20日⇒日本コロムビアが初のLPレコードを発売/9月10日⇒黒澤明監督の「羅生門」がベネチア映画祭でグランプリ受賞/10月28日⇒力道山が東京・両国のメモリアルホールで初のプロレス試合。高峰秀子主演の初の総天然色映画「カルメン故郷に帰る」(監督・木下恵介)が公開され、津村謙の「上海帰りのリル」、小畑実の「高原の駅よさようなら」がヒットしたのもこの年だ。

 

― 黒澤明のサイン ―

 

 

― 松山秀子Wikipediaより―           ―松山善三、高峰秀子夫妻のサイン―