船村徹㊦

 

 舟木一夫と船村徹の信頼関係を象徴する出来事があった。舟木に聞いた私の記憶に間違いがなければ、2015(平成27)年の秋ごろだったと思う。船村から「舟木君、ちょっと手伝ってほしいことがあるから食事でもしないか」と誘われた。当時83歳の船村の要件は「最後の内弟子に大門弾という男がいる。来年デビューさせたいと考えているので、是非プロデュースをやってくれないか」というものだった。

 

 

 舟木は早速、作詞した数編の作品を船村に渡した。船村はその中から「ござる~GOZARU~」に作曲しデビュー曲にすることにした。船村は小林旭に作った「ダイナマイトが百五十屯」にも似たアップテンポな曲調にした。大門の芸名は船村の「村」、舟木の「木」を取って「村木弾」になった。村木は2016年2月17日にデビューを果たした。3人とも申年だったため、舟木は“三猿プロジェクト”としてPRに努めた。

 

 

 村木は秋田市出身。国立秋田工業高等専門学校を卒業後に上京。道路会社に就職して工事現場の監督などをやっていたが、子供の頃から親しんでいた演歌への思いが捨てきれず、手紙に自分の音源を添えて船村に入門を訴えた。栃木県日光市の船村の仕事場「楽想館」で内弟子、付き人生活を始めた。船村はそれまで15人の内弟子を送り出しているが、村木は最後の内弟子になった。デビューまで12年半かかっている。

 

 2作目は「都会のカラス」。舟木が数編を渡したうちの1作。舟木はこの曲にもメロディーを付けていたことに感激した。村木は2017年2月13日に初めて船村から直々にレッスンを受けた。村木は「先生は鬼気迫る形相で、厚い思いが伝わってきた」と言う。船村が神奈川県藤沢市内の自宅の寝室で亡くなったのは3日後の16日午前11時ごろだった。84歳だった。2作目は4月19日にリリースされた。

 

 舟木は後援会の機関誌「浮舟」で「--巨星逝く--」と題して次のように書いている。「この作品が結果的に先生の『遺作』となった。“なんと云うご縁か…”と、鳥肌が立つほどのめぐり合わせだ。先生が精魂をこめて産み出された作品は五千曲を超える。ボクがお手伝いした(出来たのか…)のはたった二曲だ。そのうちの一曲が遺作となって村木弾の新曲として世に出る。“なんと云う…”」。

 

 

 「都会のカラス」に「カアカアカア」というくだりがあり、舟木に聞いたことがある。「あれは船村先生の発案でして、先生がメロディーを付ける流れの中で出てきたものなんですよ」ということだった。「都会のカラス」は船村が亡くなった翌日、レコーディングされた。舟木は大阪・新歌舞伎座の5月公演の舞台に「都会のカラス」とそれを歌う村木弾を乗せてもらえないか無理を承知でと劇場側に依頼した。二つ返事でOKが出た。下は船村本人が書いた譜面で、毎日新聞の広告欄に掲載された。

 

 

 船村の通夜は2月22日、東京・護国寺で行われた。参列した舟木は記者のインタビューに「やんちゃ坊主の典型のような方でした。30歳のころ、歌手を辞めて田舎に帰ろうと思って荷物をまとめていると先生から電話がかかってきました。辞めるのは君の勝手だけど『夕笛』は誰が歌うんだと、引き留めるどころか怒られました。その言葉で歌を歌うということは、そういう深いことで、作品を大事に歌おうと考え直し、その一点でここまでやって来ました」と答えている。

             

― 護国寺 国の重要文化財に指定される本堂 ―

 

 

 2016年10月28日、船村さんは文化勲章の受章者に選ばれました。作曲家としては1956年の山田耕筰以来2人目。国民栄誉賞は受賞していませんが、それ以上の勲章だと思います。船村さんは「私のようなものが頂いたことよりも、たくさんの諸先生方が忘れ物をしたようで、それを私がお届けする役だと思っています」と話されました。後日開かれた受章を祝う会には当時の菅義偉内閣官房長官もかけつけていました。私は歌謡曲、演歌の世界で船村さん以上の作曲家は今後出てこないのではないかとさえ思っています。

 

 

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