師走の風景

 NHKから日本コロムビアに舟木一夫の「紅白歌合戦」への出演打診があったのは、1963(昭和38)年10月某日。 デビュー半年足らずの歌手の出演は異例のことだった。担当ディレクターの栗山章が伝えると、舟木は「不参加ということでお願いできませんか」と断りの連絡をしてほしいという。栗山はちょっと驚いたが、舟木らしいとも思った。今出場すればファンは喜んでくれるかもしれないが、この人気が来年まで続くかどうかも分からない。これならやっていけるという自信ができないうちは…そんな新人歌手としての不安がそう答えさせた。舟木は見かけによらず(!?)、神経質すぎるほど慎重なところがあった。

 

  

 

 舟木はなんと同様の打診に対して3回も断りを入れている。ある意味頑固とも言える。それでもNHK側は紅白の担当部長が直々に出演を依頼してきたため、これ以上のお断りは失礼になるということで「やらせていただきます」と最終回答した。12月5日から東京・新宿コマ劇場で「ホリプロダクション青春パレード“花咲く学園”」(上はパンフレット)の公演が行われ、舟木はラグビー部員役で出演。公演中の6日、夜の部を終えて日本テレビで正月番組の収録を行っている最中に日本レコード大賞・新人賞受賞の知らせが届いた。

 

― 日本レコード大賞会場:1930年頃の東京市公会堂のちの日比谷公会堂 Wikipediaよりー

 

 さらに9日には、4月から放送中の「花の生涯」(原作・舟橋聖一)に続くNHK大河ドラマの第2弾「赤穂浪士」(原作・大佛次郎)に矢頭右衛門七(やとう・えもしち)役で出演することが決まったことを栗山から知らされた。舟木はいずれもすぐに故郷の両親に連絡した。2月のレコーディング→6月のデビュー→年間シングル5枚&アルバム1枚発売→映画2本に出演・公開、歌番組を中心に多数のテレビ番組出演、雑誌の表紙やグラビア撮影・インタビュー・座談会など…とにかく目まぐるしい1年の最後にきて、この忙しさ。それまでの人生の中でこれだけ充実した時はなかっただろう。

 

― 昭和38年(1963年)銀座付近(NHKクリエイティブ・ライブラリーより、No.0042)―

 

 この間も新宿コマでの公演は続いていた。公演中、舟木がホリプロのプロデューサーに「この台本はひどすぎます。こんな実のない舞台はつまらないと思います。大御所の先生の名前になっているけど、お弟子さんか誰かが代筆したとしか思えません。ゲネプロ(通し稽古)までに直してもらったほうがいいですよ」と言って台本を突き返した。知っいる人にはこの辺がいかにも舟木らしいところだが、突き返した後ろに演出家がいて「舟木君、きちんとやるから…」。それ以上の言葉はなかった。

 

 舟木をNHK大河ドラマに推薦したのは作家・村上元三であることを知っていた舟木は新宿コマの公演がはねた11日夜、親しい歌舞伎俳優・岩井半四郎とともに「赤穂浪士」の脚色を手掛けていた村上の自宅を訪ねて挨拶した。村上はテレビで歌う舟木を見て「ズラ塗りのいい顔をしている」と直感して、大河に出演させないかとNHKの担当者に打診したという。担当者は「えーっ、新人の歌手を大河ドラマに出すんですか」と渋ったが、「責任は俺が持つから」と強く推したことを明かした。

 

 

 翌12日は舟木の19歳の誕生日。新宿・若葉町にある銭湯「梅の湯」の主人・田中慶一は銭湯を臨時休業にしたうえで、銭湯全体をおでんや寿司などの模擬店舗に大変身させ、歌手仲間や地元応援団らを集めて盛大にバースデー・パーティーを開いた。一歌手のために銭湯を休んでパーテイーを開催するなんて今では考えられない。やはり“古き良き時代”ということだろう。当時の週刊誌はこの模様を取材して写真付きで報じている。直木賞作家の安藤鶴夫ではないが、「まことに心温まる美しい町の物語ではないか」。

 

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 舟木一夫さんの写真集「60th/77age」(5000円)が好評発売中です。舟木さんによると、昨年12月12日の77歳の誕生日から今年2、3月にかけて撮り下ろした“Gさんの写真集”ということです。

 当面は各コンサート会場で販売し、7月20日(水)から通信販売されます。7月20日以降の問い合わせは、スクーデリア・ユークリッド通販部☎03-3447-3521(平日11時~18時)です。20日前には開設しておりません。