これまで2回に渡り、賀田駅をもとに地域の足としての紀勢本線の役割を見てきましたが、次は都市・観光地を結ぶ路線としての役割を見ていきたいと思います。


1978年10月改正により新宮以西が電化されるまでは、特急「くろしお」のように東西を跨いで走る列車がいくつかありましたが、1982年11月改正により「はやたま」が新宮発着に短縮されて以降、紀伊勝浦発着を除き、東西を跨ぐ列車は無くなってしまいました。


そのため、現在は基本的に特急は紀伊勝浦発着、各駅停車は新宮発着となっています。


さて、都市・観光地を結ぶ重要な役割を担うのが特急「南紀」であり、現在1日4往復設定されています。


1978年10月に名古屋ー紀伊勝浦を南紀は3往復・6両編成、また補完する形で急行「紀州」が同じく3往復・4〜6両編成が設定され(ややこしくなるので名古屋ー紀伊勝浦以外の優等列車は省略)、その後紆余曲折があり(書くとそれだけで膨大な文量になるので省略)、現在は南紀が4往復・2両編成となっています。


南紀のキハ82系及び紀州のキハ58系と、現在のHC85系では座席数に差はありますが、単純にキャパは約1/6になったわけです。


それだけ鉄道の需要が減少したということですね。


さて、その要因を求めると、やはり自動車道の整備に行き着きます。


時代を少し遡って、

1959年7月15日に紀勢本線が全通するまでは、最後の区間である新鹿ー三木里を連絡するため、尾鷲ー紀伊木本(現熊野市)を国鉄自動車(バス)紀南線が2時間40分かけて1日4往復で結んでいました。


その頃の国道42号はまだまだ未整備で、特に最大の難所であった矢ノ川(やのこ)峠は、標高800mの地点まで最小幅員3mの未舗装の道がつづら折れに続く悪路中の悪路として立ちはだかっていました。

今で言うキングオブ酷道ですね。


   (Wikipediaから)

おまけにこの辺りは日本一の雨量を誇る地域で、冬期は800mの標高では南国と言えども積雪や凍結するので、よく不通になったそうです。


時代はやや下り、 

1968年に矢ノ川峠に新道が開通するなど国道42号は一定整備が進みましたが、バイパス化などの本格的な改良が進んでおらず、また21世紀を迎えても紀伊半島の東側には自動車道が開通していませんでした。


そのため、名古屋から新宮まで車で移動するためにはかなりの時間を要したので、この区間の移動の主役はまだまだ鉄道でした。


#4に続きます。