#4の続きです。


紀勢本線のことを書いていたら、一つ懐かしい記憶が蘇りました。


近頃、固いお話が続いているので少し柔らかいお話を。


あれは1991年8月13日

青春18きっぷを使って紀伊半島をグルっと一周した時のこと。

当時の青春18きっぷ(この日使用したものの仲間)令和3年じゃなくて平成3年


嵯峨野線の二条駅から始発電車に乗車し、
当時の時刻表によると、 
二条517 →京都523  山陰1番線に到着

当時、山陰線のホームは山陰1〜4番線と呼ばれていて、1994年9月に関空が開港し、特急「はるか」が走るようになった時、山陰1番線がはるか専用ホームになり、その後30番台の番号が付けられました。

京都からは琵琶湖線に乗り換え、
京都529→草津552
草津からは草津線に乗り換え、
草津615→柘植707
柘植からは関西本線に乗り換え、
柘植727→亀山750
時刻表鉄なのでちょっとウルサイんです。爆笑

そして、亀山から臨時快速「あたしか」に乗車

臨時快速「あたしか」は快速みえと同じ車両で

(wikipediaから転載)
1990年と1991年の夏休み期間の7月21日から8月19日まで設定された熊野市行の臨時列車で、お盆期間(8月10日〜16日)は紀伊勝浦まで延長されていました。

さて、名称の「あたしか」とは、紀勢本線の新鹿駅の前に広がる美しいビーチで知られる新鹿海水浴場から。

新鹿海水浴場

さて、8時11分に亀山に到着した快速「あたしか」は名古屋7時1分発で、確か2両ではなく4両編成だったような…。

先頭車は指定席で他は自由席で、お盆でもあり結構混んでいるか不安でしたが、朝早い列車のためか意外に空いていて、通路側でしたが無事に座れました。

快適なクロスシートで、当時、東海道本線を走っていた117系の新快速のような感じで、亀山からの停車駅は津、松阪、多気、三瀬谷、紀伊長島、尾鷲、三木里、新鹿、熊野市、新宮、紀伊勝浦と、三木里と新鹿以外は特急と同じで、これで特急料金が不要でめっちゃお得でした。

さて、津、松阪と過ぎ、多気から参宮線と分かれ、右へ大きくカーブしていよいよ南紀へ。

暫くすると、隣の席の人が、
「学生さんですか?」
と声を掛けてきました。

平成の初め頃までは、「どこまで行くの?」など隣の人に気軽に声を掛ける人がいましたね。

見ると40歳くらいのオシャレで中々イケメンの男性で、
「名古屋でデザイナーをしていて、列車での一人旅が好きで今夜は勝浦に泊まる予定。お盆しか休めなくてね…」

列車の旅は楽しい、南紀はいいところだなど話が弾み、
「せっかくなので、もしお時間があれば新宮で昼食でも食べませんか?」とお誘いを受け、

元々、新宮で紀伊田辺行の普通に乗り換える予定だったので、昼食をご一緒することに。

途中、車窓からは、青くどこまでも広がるきらめく海、美しい弧を描く三木里や新鹿のビーチ、青い空にくっきりと輪郭を刻む山々、そして白く沸き立つ眩しい雲…
南紀の夏は輝きに満ち溢れていました。

ただ、肝心の三木里や新鹿で降りる海水浴客はほとんどおらず、「あたしか」の名称が切なく感じました。
 
この頃はまだ海水浴列車が多数運行されていましたが、既に車を使うのが主流であり、また時はバブル
特に若いカップルなどは車じゃなきゃって感じでしたね。

それを裏打ちするかのように、この頃を頂点に海水浴列車は急速に姿を消し、この快速「あたしか」もこの夏限りで僅か2年の運行をもって打ち切られてしまいました。

さて、11時29分に新宮に着き、近くにある浮島の森へ行き、めはり寿司をご馳走になった後、そうそう少し足を伸ばして速玉大社へも行きましたね。
その後那智の滝へも誘われましたが、京都まで戻れなくなるので丁重にお断りしたところ、
デザイナーの方は、
「では、またどこかで」
と13時26分発の紀伊勝浦行の普通で先に出発して行きました。

その後、お土産を買って、14時29分発の紀伊田辺行の普通に乗車し、キラキラ光る夏の枯木灘見ながら帰路につきました。

このような出会いも鉄道の旅の楽しみの一つでしたね。

名古屋のデザイナーさん、
あの時は本当にありがとうございました。


#6に続きます。