Vol.1056-1/2 R巻頭-168。琴電踏切フォトSKETCH-02<片原町~瓦町> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

新居宮池は今

夕陽を映す宮池の水面。

宮池4景-西側の中央から東方向。

宮池4景-北側の中央から南方向。

宮池4景-東側から西方向。

宮池4景-南側の中央から北方向。

 

 

 Akijii-blog巻頭言Repeat-168  Orignal掲載日:Vol.335 (2015.06.30)

器量が…。

 

人生は運や環境によって様々であるが、器量のある人間になるのには、今をどのように生きるのかの積み重ねではないかと思う。ここで言う器量とは、相手の背景までを理解し、受け入れることのできる器の大きさ、つまり心の広さや深さとし、人間の持つ器と、そこに入っているものを指すと解釈したい。

 

素晴らしいものを沢山詰め込んでいる器と、器だけは立派だが中身があまりないもの、器が小さくて中身が入り切らないものなど様々なケースがあるだろう。器はその人の考え方で大きくも小さくもなる。

多くの本を読み、器量の大きい人や多くの人の人生に触れるような体験や経験をして自分の肌で感じ、自分で考え、自分で決めてきた人は、そのたびに器がぐんぐん大きくなったのだろう。

自分の経験から得た価値観や考えを確立していくことで、器の中を満たしたい。

但し、自分の価値観に執着し始めた途端、視野が狭くなり、相手との距離が出来てしまう。

自分の価値観を確立させ、自立し、しっかりと生きていくことは素晴らしいが、執着しないように常に客観視していく自分も必要になる。 

 

他人の真似ばかりして自分で考えない人の器は、見たり聞いたり考えたりする必要がないから、どんどん小さくなる。

他人の器を気にしているだけで、自分の器はなくてもいい、ましてそれを満たすことなど必要ないとしている。

途中に辛いことや挫折することなどの困難に出会った時に、どう対処したかによって器は大きくも小さくもなるが、諦めてしまった人はそれまでだ。

時間がかかっても諦めることがなく、次のステップに進むと、トカゲの尻尾のように、期待はまたむくむくと湧いてくるだろう。 そのような状況になれば器の存在を確かめ、何を詰め込むかを考えようではないか。

 

 

 <高く広がる空間> 

ウォーキングコースから見る袋山の上空。

ウォーキングコースから見るだんご山3兄弟と堂山の上空。

原児童公園(牟礼町原)から見る北西方向の五剣山の上空。

平賀源内旧邸(さぬき市志度)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇今年もスクスクと育っているMt氏の畑のバナナ

◇So宅の畑で頑張って咲き続けるケイトウオミナエシ

◇ウォーキングコース脇で今年も咲いた浜木綿(はまゆう)

 

◇かかりつけ医院のコエビソウ

 

 

<akijii展- (614) 

今報は、スクラッチアート(美しいイングリッシュガーデンの世界-10点)-№3

№3:小鳥を誘うバラたちを掲載します。

所要時間は230M(3.8H)でした。

 

引き続き、Vol.1056-2/2をご覧ください。