Vol.935-1/2に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-中讃編:22<田潮八幡神社/青ノ山の古墳群>
<30.田潮八幡神社/青ノ山の古墳群> <撮影:2015.05.13 and 2017.09.01>
田潮(たしお)八幡神社は、古くより鵜足郡津郷の土産として応神天皇を祭り 青野山西麓に鎮座 土器八幡宮と崇められてきた。南北朝時代貞治元年(1362)7月、細川頼之が 将軍足利義詮の命により、細川清氏を松山郷高屋の城に攻めたとき、出陣に際し当八幡宮に戦勝を祈願した。清氏の西長尾・中院源少将雅平に対しては、陽動作戦を以て戦い、清氏を高屋の西林田の地に討ち取ったことは、太平記に詳述してある。全讃史には、はじめ源少将が攻めてきたとき、頼之はしばらく当社付近へ退却したが、社前の水田地帯一面に潮が満ち、敵軍を防いだので田潮八幡宮と称したと伝えている。讃岐国名所図絵によれば頼之は宇多津の館に凱旋ののち、社領を寄進し、祝勝の松を手植えしたが、栄えて数十歩の笠松となり、掛引の松 陰陽和合の松と呼ばれて世に親しまれたという。境内には今に頼之の松の石碑があり、往時を偲ばせる。 (神社境内の田潮八幡神社由来石碑より)
「古墳の山」と呼ばれる青ノ山には、多くの古墳や窯跡が見られます。山頂にある一号古墳(山頂古墳)の両袖形横穴式石室は、約1400年前のものとみられ、この地が早くから開けていたことを物語っています。そして、南のふもとには市内で最も古い(4世紀前半)前方後円墳である吉岡神社前方後円墳があります。 (丸亀市HPより)
<所在地・外観>
▼田潮八幡神社-丸亀市土器町東5丁目
▼田潮八幡神社、青ノ山-古代の霊園・青ノ山古墳群
JR宇多津駅から県道33号線を南西方向に土器町交差点まで1.3km進み、左折して「⇦青ノ山入口」の標識のある交差点(約450m)を左に曲がると、突き当りに「田潮八幡神社」が鎮座する。
<概 要><歴史遺産>-1
▼JR宇多津駅をスタート、JR宇多津駅前を東南に進む
▼県道33号線を南西に進む
▼幹線市道を南下し青ノ山入口の標識の先を左折、田潮八幡神社の鳥居が見えてきた
▼田潮八幡神社-鳥居・狛犬・社号標、参道:1
▼田潮八幡神社-参道:2、石段
▼田潮八幡神社-拝殿、本殿
▼田潮八幡神社-社殿、神楽台拡張修復記念碑
▼田潮八幡宮-元旦の御神楽(web引用-水彩画風変換)
当社の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で、この武勇の神に相応しいのが、10月15日の例大祭で行われる「暴れ神輿」である。神霊を遷した神輿を氏子たちが担いで練り歩き、蓬莱橋の近辺で威勢よくしぶきをあげて土器川に暴れ込む。いかにも勇壮な神輿の水浴びに、「神のお勇み」とも言われる所以である。
▼土器川、蓬莱橋
▼暴れ神輿-1(web引用-水彩画風変換)
▼暴れ神輿-2(web引用-水彩画風変換)
田潮八幡神社の裏手の山道を約1.0km上り、途中から曲折する道を1.8km進むと、青ノ山山頂(224m)に至る。
<概 要><歴史遺産>-2
▼青ノ山の上り道-1
▼青ノ山の上り道-2
▼青ノ山の上り道-3
▼青ノ山-山頂広場、瀬戸大橋方向を見るakijii
▼青ノ山-山頂広場からの眺望
古墳時代後期になると、この地の有力者たちは青ノ山にそれぞれの墓地を定め、次々に古墳を営んだ。現在、山頂から山麓にかけて二十数基が残り、「青ノ山古墳群」と呼ばれる。
▼青ノ山古墳群
山頂広場の「青ノ山1号墳」は、古墳群の最高所に築造された方墳(ほうふん)である。
巨石で天井部を覆い、内部には南に開口する両袖型の横穴式石室がある。
▼青ノ山1号墳-全景、1号墳を見るakijii
▼青ノ山1号墳-玄室奥壁(web引用-水彩画風変換)
南西側のアスレチック遊具に接して8号墳(円墳)がある。
▼墳全景、玄室(web引用-水彩画風変換)
▼玄室奥からL字形がよく解る、石室正面(web引用-水彩画風変換)
天井石が取り去られ、珍しいL字形の横穴式石室が良く解る。石室の形状は南麗の青ノ山墓地公園入口の西丘にある6号墳(円墳)によく似ており、共に6世紀後半の築造である。
▼青ノ山墓地公園-1
▼青ノ山6号墳-1
▼青ノ山6号墳-2
土地造成工事により墓地公園南の尾根筋が姿を変え、その小高い頂部に所在した「7号墳」(円墳、通称龍塚。直径約25m。南西に開口する大型の両袖型横穴式石室。6世紀後半)の玄室が壊された。玄室奥壁に巨大な花崗岩の鏡石を用い、古墳群では特出した存在で有ったが、現在、龍塚の丘は削り取られ、公園入口の「青ノ山1号窯跡」(県史跡)の一角を残すだけとなっている。
▼青ノ山7号墳と青ノ山1号窯跡-1
▼青ノ山7号墳と青ノ山1号窯跡-2、青ノ山9号墳:石材基底部のみの残存
墓地公園から南西に下って行くと、南麗に届く丘陵尾根に緑青をおびた銅屋根の吉岡神社と、その背後の「吉岡神社古墳」が目に入る。
▼青ノ山の南嶺手前の丘陵に吉岡神社、吉岡神社の参道
▼吉岡神社の鳥居と社号標、総段数84の石階段
▼吉岡神社の境内、社殿
吉岡神社古墳は、全長51mの前方後円墳で、後円部は直径24m、前方部は北に向かって撥(ばち)形に開く。後円部の竪穴式石室が江戸時代末期に掘り起こされて、筒形銅器1・銅鏃(どうぞく)5・鉄刀子(てつとうす)1などの副葬品が採集されたと云う。
▼吉岡神社の前方後円墳
▼若王子大権現、石段40段を上がると前方後円墳
▼前方後円墳-後円部・石室、前方後円墳-後円部
▼前方後円墳-前方部
▼吉岡神社古墳-出土品(web引用-水彩画風変換)
青ノ山墓地公園の辺りを散策すると、中世史の1コマにも興味が湧く。1389(康応元)年、室町幕府3代将軍足利義満(よしみつ)は、厳島(現、広島県廿日市市)参詣と西海の政情視察を終え、細川頼之(よりゆき)の守護所宇多津に立ち寄ろうと、多度津(現、多度津町)に上陸して海岸伝いの路をとったが、今川了俊の「鹿苑院殿厳嶋詣記」には「馬はあれどもかち(徒歩)よりなぎさのひがた(干潟)にそひてあゆませ給て、いさゝかなる山路を越えさせたまひて、うた津にまいらせ給」とある。義満の一行は多度津から中津・今津・津の森を過ぎ、亀山の南を東へ進んで土器の中原・高津・上分を経て、墓地公園辺りの峠道を越えて宇多津に入ったようである。
▼青ノ山墓地公園-道路、墓地
▼墓地公園から峠道を越えて宇多津へ-1
▼墓地公園から峠道を越えて宇多津へ-2
▼墓地公園から峠道を越えて宇多津へ-3
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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