Vol.933-2/3 R巻頭-45。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:20<丸亀港~旧金毘羅街道> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.933-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-中讃:20<丸金毘羅街道>

28.丸亀港~旧金毘羅街道  <撮影:2011.10.04 and 2017.09.03>

金刀比羅宮は海上交通の守り神として信仰されている。清水次郎長伝によれば、次郎長は願いがかなったお礼に、森の石松を金比羅へ代参させる。当時から願掛けの場所でもあった。それは今も変わらないが、ほとんどが観光目的である。かつて、江戸や大阪からやって来る人は大阪から船に乗り、3日3晩かけて丸亀港に着いた。丸亀港から金比羅まで3里・12km。丸亀から金毘羅宮へと通じる丸亀みちは、金毘羅参詣道のうちもっとも参詣者が足繁く通り、往来の賑わいをみせていたという。

中府から三軒屋(現、中府町2丁目)を経て東へ向かい、県道33号線を横切って県道204号線にぶつかると、ほぼこれに重なって南へと進む。群家(現、丸亀市)、与北(現、善通寺市)、高篠(現、まんのう町)、苗田(のうだ)・横瀬(ともに現、ことひら町)を経由して高灯籠のある北神苑(きたしんえん)に至る。

丸亀街道にはたくさんの灯篭や丁石が残されている。

 

<所在地・外観>

丸亀港から旧金毘羅街道へ-丸亀市福島町・中府町・柞原町・郡家町

▼新堀湛甫親水公園の太助灯籠と京極大橋、百五十丁石の起点石と一の鳥居--善男善女が往来した丸亀みち

 

▼平成の丁石-二十丁、一里屋の石灯籠-是より鳥居まで百丁

 

▼与北の茶堂跡-街道最大の石灯籠、中堤防から左に宝憧寺池・右奥が辻池で手前が仁池

 

 

JR丸亀駅から北に約400m進むと「丸亀港」に出る。

 

▼JR丸亀駅北口の灯籠、丸亀港へ向かう

 

▼福島町を北上、丸亀港フェリーターミナル

 

▼丸亀港

 

 

<概 要><歴史遺産>

港の界隈は、古い港町の面影を残す福島町・西平山町である。

福島町の起こりは、塩屋から東に突き出た中須賀の州浜へ船大工らの移住者が増え、1691(元禄4)年福島橋が架けられた事による。

 

▼福島町の家並みと京極大橋、西平山町の街並み-1

 

▼西平山町の街並み-2

 

 

江戸時代後期、金毘羅参詣が全国的に広がり、丸亀湊には対岸の下津井(現、岡山県倉敷市)や浪花(大坂)からの金毘羅船が数多く発着した。丸亀藩は1806(文化3)年中須賀の北側に福島湛浦(たんぼ)を築造し、さらに藩の江戸留守居役瀬山四郎兵衛重嘉(せやましろべえよしげよし)(登)の建策「金毘羅参詣千人講」による資金集めが功を奏し、1833(天保4)年東側に「新堀湛浦」が竣工した。

 

▼新堀湛甫

 

▼文政11年丸亀港古図、丸亀湊

 

 

夜間の入り船の目印となる常夜灯(現在、新堀港の西側に立つ金毘羅青銅灯籠)が、1838年に造立された。「江戸講中灯籠」の名称があるが、講中最高額を寄進した塩原太助(しおばらたすけ)の名をとって太助灯籠と呼ばれて来た。全高は約6.6mで、青銅製3段の台座には1,357人の寄進者の名が刻まれ、その真ん中の台座の西北面一杯に「奉納 金八十両 江戸本所相生町二丁目 塩原太助」とある。

灯籠の優美な姿は昔のまま、時代を醸し出す港のランドマークである。

目の前の港を跨いだ京極大橋は、いかにも現代風で対照的である。

 

▼新堀湛甫親水公園の太助灯籠と京極大橋、丸亀藩江戸留守居役-瀬山登の銅像

 

▼金毘羅講灯籠の石碑、太助灯籠

 

▼太助灯籠-江戸講中、刻まれた塩原太助と寄進者の名前

 

▼京極大橋と丸亀港

 

丸亀湊への入り船は引きも切らず、夜明けを待って上陸した参詣者は、一路金毘羅さんを目指した。本町から通町や富屋町を通り、堀端(外堀)から西方に向かい、南条町、農人町・餌差町(現、中府町5丁目)、そして城下の出入口で番所がおかれた中府口(中府門。現、中府町5丁目南端)へ急いだ。

 

▼中府口へ向かう、通町アーケードを右折

 

▼浜町アーケードを進み左折し富屋町商店街を進む、富屋町商店街を進む

 

▼県道33号線交点を右折、県道33号線を西進

 

▼旧金毘羅街道へ進む、こんぴら湊まるがめ街道の案内図

 

 

丸亀みちを縫うように建てられていた道標・丁石・灯籠などが歴史の波間に見え隠れしている。

かつては、金毘羅さんに向かうにつれて数を増し、参詣者に対して、いよいよ神域に近づいたという敬虔(けいけん)な気持ちを起こさせた。

 

▼道標-すくこんひら 左こんひら道、南条町を南下

 

▼南条町の石灯籠、石灯籠の説明板

 

▼こんぴら街道標識と百四十丁石灯籠、百四十丁石灯籠

 

 

中府口から250mほど南へ行くと、「ベルメール中府」の西側に「従是金毘羅町口江百五拾丁」の街道起点石がある。

 

▼百五十丁石の起点石と一の鳥居、「従是金毘羅町口江百五十丁」-街道起点石

 

その前方に1871(明治4)年造立の一の鳥居がある。

長州赤間関(現、山口県下関市)や奥州野辺地(現、青森県野辺地町)などの船問屋が奉納した高さ6.7m、柱間4.5mの大鳥居である。

 

▼一の鳥居、一の鳥居の扁額

 

▼一の鳥居-長州赤間関・奥州野辺地の奉納、発起世話人・気配人

 

▼中府町を南下-県道205号線を横断、平成の丁石-五丁

 

▼県道33号線を東に横断し県道204号線交点を右折南下、県道33号線を南下-山北町

 

▼県道33号線を南下-丸亀城南郵便局、平成の丁石-二十丁-県道204号線から右側へ

 

▼南下する-柞原町、国道11号線を南に横断する

 

▼南下する-郡家町1、田村(正面寺)の自然石灯籠

▼南下する-郡家町2、南下する-高松自動車道を潜る

 

▼一里屋の灯籠と丁石、是より鳥居まで百丁、東 高松

 

 

引き続き、Vol.933-3/3をご覧ください。