Vol.925-1/2に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-中讃編:12<旧善通寺偕行社>
<19.旧善通寺偕行社> <撮影:2017.07.29>
「偕行社」とは明治10年(1877年)に創立された陸軍将校の親睦及び学術研究を目的とする団体の名称です。この偕行社(かいこうしゃ)が社交場として建設した建物にもその名が用いられたため、偕行社という名の建物は代表的な師団が開設された場所、つまり全国的に存在していましたが、現存するものはとても少なくなりました。
明治29年(1896年)善通寺町に開設された第十一師団は、日清戦争後の陸軍拡張期に増設された6師団のうちの一つで、「旧善通寺偕行社」は、第十一師団の将校たちによって明治36年(1903年)5月10日に竣工しました。竣工年の10月13日には東宮(後の大正天皇)が香川県行啓の際の休憩所としてご利用になり、明治38年(1905年)には土屋中将が日露戦争の戦傷で療養した記録も残っています。また、大正11年(1922年)にはこの地で実施された陸軍軍事大演習参観のため皇太子(後の昭和天皇)がご宿泊されています。戦後はアメリカ軍が進駐し、昭和20年(1945年)12月には米兵・豪州兵の社交場となりました。 (善通寺市HPより)
<所在地・外観>
▼旧善通寺偕行社-善通寺市文京町2-1-1
▼旧善通寺偕行社-ルネサンス風、陸軍建築
JR「善通寺駅(本屋・ホームの上屋・跨線橋」(国登録)は、1922(大正11)年11月の陸軍特別大演習(摂政宮<のち昭和天皇>が偕行社に宿泊)の記念事業として、ホームに上屋(屋根)をおき、跨線橋を設け、車寄せを付設するなど、軍都に相応しく和風意匠を強調したものに一新された。
<概 要><歴史遺産>
▼県道209号線から見る善通寺駅、善通寺駅の遠景
▼JR善通寺駅の本屋、ホームの上屋
▼JR善通寺駅のホームの上屋から跨線橋へ、2番ホームから改札口へ跨線橋を渡る
▼JR善通寺駅の跨線橋-1
▼JR善通寺駅の跨線橋-2、改札口へ
駅前の善通寺市役所から南西一帯は、「陸軍第十一師団跡地」であり、師団司令部・兵器部・山砲兵第十一連隊跡地が、陸上自衛隊の駐屯地と成っており、第十四旅団司令部が置かれている。
▼旧善通寺市役所、県道24号線沿いの陸上自衛隊善通寺駐屯地-1
▼県道24号線沿いの陸上自衛隊善通寺駐屯地-2
▼陸上自衛隊駐屯地の正門、陸上自衛隊善通寺駐屯地
▼善通寺(75番札所)五重塔へ向かう両側
▼陸軍第十一師団之圖、第十一師団善通寺練兵場(当時)(web引用)
▼旧陸軍第十一師団司令本部之跡、石碑
善通寺市役所の地は東京九段(現、東京都千代田区)に本部を置いた陸軍将校の親睦団体偕行社の前庭(桜並木)跡で、南側に1903年竣工の寄棟造・平屋建てを簡素なルネサンス風にまとめ、玄関に石造角柱(ドリス式)の車寄せを設けた本館「旧善通寺偕行社」(国重文)が残っている。
▼旧善通寺偕行社-寄棟造・平屋建て
▼旧善通寺偕行社-石造角柱(ドリス式)の車寄せ
第十一師団は日露戦争では旅順攻囲の第3軍、ついで奉天大会戦の鴨緑江(おうりょくこう)軍に編入され、国民注目の激烈な戦闘正面を担っただけに、この偕行社での動員将校の相次ぐ送別会が新聞各社の取材対象となった。第二次世界大戦後は進駐軍のダンスホールや市役所・郷土館などに利用されたが、近年の解体復元工事でほぼ当初の姿に戻され、広く市民に開放されている。
市役所西の善通寺郵便局から南は輜重(しちょう)大隊(のち連隊)跡地、四国学院大学は騎兵連隊跡地で、大学の2号館は「旧兵舎棟」(国登録)であった。
▼善通寺郵便局、輜重隊跡の石碑
▼四国学院大学、騎兵連隊跡
▼四国学院大学2号館
<関連遺産>
県道24号線を挟んで西側は、徳島市へ転営した徳島県人主体の歩兵第四十三連隊跡地である。
昭和10年代に「乃木神社(本殿・拝殿・社務所・手水舎・鳥居)」(国登録)と「護国神社」が建立・整備され、戦後は「讃岐宮」と総称され、市民憩いの杜にも成っている。
▼乃木神社:社号標、参道
▼乃木神社:鳥居、手水舎
▼乃木神社:境内、拝殿-1
▼乃木神社:本殿、拝殿-2
▼乃木神社:拝殿-3
▼乃木神社:社殿、工兵隊碑
▼讃岐宮の社号標、香川県護国神社:社号標と鳥居
▼香川県護国神社:鳥居と狛犬、五省(ごせい)の石碑
▼香川県護国神社:注連柱と神馬、神社について
▼香川県護国神社:境内(祭の準備作業中?) 、永代祭神名簿
▼香川県護国神社:社殿、拝殿
▼香川県護国神社:本殿、資料館
▼讃岐宮社務所、参集殿
師団全体を見下ろせる位置にルネサンス様式の旧師団司令部が残り、初代師団長乃木希典(まれすけ)に因み「乃木館」として公開している。
▼乃木館:正面入口、屋外展示
▼乃木館:南(裏)から見るため移動、南(裏)側から見る乃木館
善通寺市役所前の「瀬川酒店」は、大正時代中頃に建築され、漆喰壁の「主屋」と海鼠(なまこ)壁の「東蔵(ひがしくら)」(ともに国登録)とがよく調和し、鬼瓦は中讃の古い民家によく見られる金毘羅船の帆の意匠である。
▼県道209号線沿いの瀬川酒店、漆喰壁の主屋
▼瀬川酒店の海鼠壁の東蔵、瀬川酒店の鬼瓦
四国学院大学前の「水尾写真館」(国登録)(1927:昭和2年完成)は、当時としては地方に珍しい瀟洒(しょうしゃ)な洋風建築で、師団の存在が酒屋や写真館を繁盛させた事を物語っている。
▼水尾写真館
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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