Vol.923-2/3 R巻頭-35。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:10<道隆寺・加茂神社> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.923-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-中讃:10<道隆寺・加茂神社

 

15.道隆寺 <撮影:2012.09.12 and 2016.06.14>

四国霊場八十八ヶ所・第77番札所。和銅5年(奈良時代頃)この地方の領主・和気道隆公が、誤って射た乳母の供養に桑の大木から薬師如来像を彫り、堂を立てたのが寺のおこりといわれている。

その領主の名に由来して道隆寺(どうりゅうじ)とされた。

のちに弘法大師が薬師如来を彫り、領主の小像を胎内に納めて安置したので二体薬師とも呼ばれ秘仏となっている。また、目なおし薬師として眼病にご利益があると信仰されている。    (香川県観光協会HPより)

 

天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。

これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。

道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。

そして、第3世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第4世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第5世の聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となり大いに栄えた。

しかし、貞元年間(976年から978年)の大地震による被害や、康平3年(1060年)の兵火や、天正の兵火による災難にあって興亡を繰り返した。                                        (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼道隆寺-仲多度郡多度津町北鴨1-3-30

▼道隆寺-四国八十八個所霊場第77番札所

 

JR多度津駅を出て右に折れ、県道214号線を約300m進むと、県道216号線に合流する。

ここを東に折れ、JR予讃線の跨線橋を渡ると、約400mで「道隆寺」(真言宗)に着く。

 

▼県道214号線を東進、県道216号線に突き当たりを右折

 

▼跨線橋を渡る、道隆寺が見えて来た

 

 

<概 要><歴史遺産>

道隆寺は、奈良時代に小堂を創建し、平安時代に堂舎が建立されたと伝えられており、「鴨(かも)のお大師さん」と呼ばれる。四国八十八個所霊場77番札所であり、遍路の参詣が多い。

 

▼仁王門-1

▼仁王門-2

 

▼境内、(大師堂と鐘楼)

 

▼境内(本堂) 、本堂

 

▼大師堂、弘法大師と衛門三郎の像

 

▼潜徳院殿御廟

 

▼多宝塔、七ヶ所まいり寿老人

 

▼高祖大師千五十回忌之搭、日本全国百七十観音お砂ふみ

 

▼灌頂(かんじょう)堀、境内から仁王門の方向

 

寺宝は、絵画では鎌倉時代末期の「絹本着色星曼荼羅図」(国重文)がある。

この曼荼羅図は、3月の星供養のとき本尊として掛けられ、北斗曼荼羅とも呼ばれる。

他にも、法華会(ほっけえ)の本尊として用いられてきた南北朝時代の釈迦説法図「絹本著色法華経曼荼羅図」がある。

 

▼<参考>西國寺(広島県尾道市)蔵-絹本着色北斗曼荼羅、絹本著色法華曼荼羅(web引用-水彩画風変換)

   

 

建造物では、室町風の蟇股(かえるまた)を持つ、江戸時代再建の「道隆寺護摩堂」がある。

 

▼本坊、護摩堂(web引用)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.923-3/3をご覧ください。