新居宮池は今
猛暑で夏バテか、落葉が目立つ染井吉野桜の宮池遊歩道。
春に花を咲かせる桜の木は、本来11月頃から紅葉し、冬にむけて徐々に落葉するが、9月中旬時点で落葉が目立つとなると、1か月以上早いことになる。梅雨明け直後に急に暑くなり、それが長く続いたことが原因で落葉が早くなっているようで、人間でいうと、夏バテ気味で元気がないといったところのようだ。
Akijii-blog巻頭言Repeat-030 Orignal掲載日:Vol.051 (2011.05.25)
情報→知識→私の知恵・・・。
情報と上手く付き合って、それを知識とし、さらには人生の知恵に換えて行く。
情報、知識、知恵。絶えず目や耳を通じて能に集っているもの、それが情報だ。
情報は集積することも、処理することも出来る。
情報が自分で使えるレベルになったもの、学力になったり、仕事で有用になったものを知識という。
知識は力である。
必要な事を知っており、必要な時に取り出して使えるようにして置く事は、現代社会では生きていくための技術であり、武器でもある。
しかし、もっと大事なものもある。
それが知恵である。
知識が経験に裏打ちされて人生観を高めるレベルにまでなったもの、悟りのための導きの言葉にまでなったもの、それが知恵である。知恵は知識を善悪のふるいに掛ける時に生じる。
深い内省の時、瞑想の時に結晶してくるものだ。それは天の一角から降りて来るインピレーション(閃き)、霊感にも似たものだ。知っているという事は力であり今後益々、知識が仕事をして行く事になろう。有用で役に立つ情報を集積し、知識として使って行く。
人生の目的・目標である「知恵を得る」へ向かって・・・飛び立とう。
情報→知識→私の知恵(価値)の量産へ。
<高く広がる空間>
県立高松支援学校(田村町)の上空。
県立香川中部支援学校(田村町)の上空。
慈雲寺の山門(田村町)の上空。
A seasonal flower
◇ウォーキングコースの畑に咲く糸瓜(へちま)の花
熱帯アジア原産のウリ科ヘチマ属のつる性一年草である。観賞用や化粧水として利用されてきた。花は黄色から橙色をしており、単性花(雄花と雌花)を同一個体内につける雌雄同株である。
開花後、果実はこん棒状に肥大し、大きさ約50cmに生長する。温帯地域で栽培されるヘチマは、果実中の繊維が発達するため、熟した後にはスポンジに利用されるが、熱帯地域で栽培されるものには果実中の繊維がほとんど発達しないものが存在し、それらは食用として利用されている。
<俳句例>糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 正岡子規「子規全集」
◇ウォーキングコースのY宅の畑に咲くヤブラン(藪蘭)
◇町並巡りで出会った大量の色鮮やかなランタナ
◇ウォーキングコースの山間に共生するコマツナギとカエデドコロ
◇ウォーキングコースに咲くサンジソウ(三時草)
Akijii気ままniフォトsketch<奥津神社・養福寺・貴船神社>
鬼無町佐料の「奥津神社・養福寺・貴船神社」を訪ねました。
▼所在地、奥津神社
高松市鬼無町佐料:〒761-8022
▼養福寺、貴船神社
▼県道33号線を南方向に進む、鬼無町佐料に入る
▼左側にバス停(佐料)-次の交差点を右折、鬼無町佐料を西方向に進む-1(交差点の西南角に案内板)
▼鬼無町観光案内図と史跡-勝賀城跡⇒1.5Kmの標識、鬼無町佐料を西方向に進む-2
▼鬼無町佐料を西方向に進む-3、右に「⇦勝賀城跡登山道」の標識
▼右奥に奥津神社と佐料城跡の説明板、佐料城跡の説明板
奥津神社の北東側の区画に築かれていた佐料城は、一辺65m四方程の規模で、その外側に水堀が巡っていた。
案内板は奥津神社参道入口付近にある。
佐料城の築城年代は定かではないが承久年間(1219年〜1222年)に香西資村によって築かれた。
背後の勝賀城が詰の城であるのに対して平時の居館として同時期に築かれた。
天正3年(1575年)香西佳清は藤尾城の築城を開始、同5年には藤尾城へ居城を移した。
▼奥津神社-1
▼奥津神社-2
▼奥津神社-3
▼高松市保存木-アキニレ、奥津神社-4
▼奥津神社を後にする、鬼無町佐料を西方向に進む-4
▼鬼無町佐料を西方向に進む-5、案内板「⇦養福寺・貴船神社➡」
▼養福寺へ進む(右奥に見えて来た)、養福寺-1
天長年間(830頃)に円珍(智証大師)が開基したとされる天台宗の白雲山北谷坊。明応4年(1495)西正法師のとき浄土真宗に改宗し、寛文2年(1662)教了法師のとき寺号を北谷山養福寺と号する。天明元年(1781)興正寺末寺となる。
長く香西氏の菩提寺であった。北谷坊時代の文和2年(1353)9月に起きた香西五郎殺害事件の舞台となった寺である、庫裡の庭に香西五郎の墓がある。藤尾合戦では近藤藤右衛門、宮武六右衛門戦死の地。合戦後、近藤の子は出家して教順と名乗り、宮武の娘を妻として養福寺を守った。
養福寺の梵鐘は、文政8年(1825)の異国船打ち払い令に伴う大砲鋳造のため供出されたが、その後、明治になって丸亀の万恒寺の梵鐘を譲り受けた。仏光山・延命院・万恒寺は、那珂郡土器郷(現丸亀市土器町)の田潮八幡宮の別当寺であったが、明治2年(1869)の神仏分離により廃寺となった真言宗寺院。梵鐘は天和2年(1682)に土器郷の大庄屋田村伝右衛門易全が寄進したものであり、松平頼重公に招かれた江戸の僧浄巖の撰文が刻まれていた。昭和19年(1944)、全ての梵鐘を供出させる軍の命令が出たとき、万恒寺が供出した梵鐘に「天和二年 浄巖」などの銘があったことから学術上の価値を認められ、軍への供出は免れて香川県庁保管となっていた。昭和20年(1945)9月、香川県庁から養福寺に返還され、今日に至っている。
▼養福寺-2
▼養福寺-3
▼養福寺-4
▼養福寺-5
▼養福寺-6
▼養福寺-7
▼養福寺-8
▼養福寺-9
▼養福寺-10
▼養福寺-11、養福寺を後にして貴船神社へ向かう
▼貴船神社へ進む-1
▼貴船神社へ進む-2、正面奥に見えて来た
▼貴船神社-1
▼貴船神社へ進む-3、貴船神社-2
▼貴船神社に着いた、貴船神社-3
香西町郷社宇佐神社境外末社で、香川県神社誌に無念の末に自殺した貴冨禰という女性の祟りを鎮めるために祀った事が書かれていて、祭日も自殺した日となっている。
▼貴船神社-4、西北方向の勝賀山が霞んで全く見えない
▼貴船神社-5
▼貴船神社-6
▼貴船神社を後にする、県道33号線へ進む-1
▼県道33号線へ進む-2
▼県道33号線が見えた(右折)、県道33号線を西南方向へ進み帰宅へ(自宅まで約4.7Km)
<akijii展-(475)>
幸せを呼ぶ切り絵(縁起のよいモチーフ)シリーズ-30
今報は「マトリューシカのエコバッグ」で、所要時間は内切画-295分、外枠切画-15分=310Mでした。
中から次々と人形が出てくるところから、子孫繫栄、家内安全、そして子宝の象徴に。
ロシアの民芸品ですが、ルーツは日本の七福神の入れ子人形だという説も。
◇原画 ◇内切画
◇外枠切画(完成作品)
引き続き、Vol.918-2/2をご覧ください。