Vol.437-4/4 人を説得する-4。<ことでん駅周辺-42:[琴平線]羽床駅/栗熊駅> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.437-3/4に続けてご覧ください。

          

<名所・旧跡(遺跡)-- 満州開拓記念碑(勝福寺)

栗熊村から1940年に170(570)が牡丹江省樺林に入植した。綾歌町誌によれば、ソ連軍参戦のとき697名いて、逃亡中に亡くなった者334名、栗熊村に帰った者238名とある。あとの125名はどうなったのか。
また、讃岐の民衆史によると、1945年4月15日に香川県から、大川郡からの開拓民に加え栗熊村からの国民学校・青年学校の子女34名を含む勤労奉仕隊が渡満している。ところが大本営はその前年、ソ連と戦う時は満州の2/3は放棄すると決定していたらしい。綾歌町誌には、栗熊村からの勤労奉仕隊の半数は「両親の名を呼びながら、異国の地で、医師の手当てもなく、悲惨な死を遂げたのである」と…。

 

満州開拓記念の塔

 

村に生還した者も居場所がなく、鳥取県大山山麓に入植し、香川と鳥取から香取村と名付け、栗熊村からも応援が駆けつけたそうだ。近年まで、香取村からこの慰霊塔に毎年、参拝に訪れる人がいたし、互いの住民や小学校間などでも行き来があったが、昭和が終わり平成となり、21世紀を迎えて変化が起きた。高齢化と少子化、そして町村合併での自治体間の関わりも薄くなり、栗熊小と香取村分校の相互訪問は2001年、香取村からの慰霊碑参拝団は2005年、うどん打ち訪問は2009年を最後に中断して、ついに組織的な交流は途絶えた。

勝福寺

 

戦争の記憶はどんどん遠くなっていく。

 

<見もの・聞きもの>

香取村(鳥取県)

香取村は中国地方の秀峰大山(1,729m)の北面中腹、標高3501,000mに広がる開拓村だが、194611月、満州から引き揚げてきた第8次樺林開拓団を中心に約100戸が入植し、香取開拓農協(三好武男組合長=当時)を組織して開拓を進めた。入植者の大半は旧栗熊村出身者で、困難の中で1,150haの広大な農地を開墾した。現在は大型専業酪農家を中心とした戸数70戸余りの村だが、酪農が厳しい環境に置かれる中、農産加工やレクリエーション活動など多様な取組みを行いながら、美しい村づくりを目指して村民一丸となって前進している。

▼マップ、JA香鳥開拓・香鳥村ミルクプラント(標高700M)

 

入植当初に目標とした香取開拓団団長:三好武男氏の言葉

吾々はなぜ開拓に汗を流すのか、冒険である、苦しい道を歩む、現状に満足できず、夢に生きて、何を求めようとするのか、何を希うのか、金や物だけが目標ではない、人間の真に求めてやまないものがある筈だ
それは…、その為には…、どうあるべきか、どう生きるか、何をするか、開拓には楽しさよろこびがいっぱいある

 

仁池

丸亀市綾歌町栗熊の国道32号の北側に広がる溜め池で、築造は慶安元年(1648)、県下の百にも及ぶ溜め池を手掛けた矢延平六によるもので、延べ68,398人の人足を使い、翌2年に完成したと伝えられている。

仁池は、まんのう町で土器川をせき止めて水を引いている。土器川からの取水は、陰暦の9/9~翌年の3/3までの間は仁池に優先権があり、旧綾歌郡内の他の溜め池は仁池の後でないと取水が出来なかった。

反面、3/3を過ぎるとたとえ満水に成らなくても仁池への取水は出来ない決まりになっていた。

はるかに見える讃岐富士と仁池の姿は、さぬきならではの美しさで、堤防はサイクリングコースとしても親しまれている。仁池の規模は、堤高:16.0m、堤長:328m貯水量:1502千平方m、満水面積:28ha、潅漑面積:347haである。

▼北端から南方向

 

▼仁池と飯野山

 

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀