Vol.374-3/4に続けてご覧ください。
石田神社の南方の馬場は古くから戦前まで、秋の大祭の翌日、盛大に競馬が行われていた。しかし、馬場の西側に運動場が造成されるにおよび競馬に変わって2区内小学校の連合運動会や氏子運動会が開かれるようになった。その後、この運動場は馬場も含め、昭和56年度農村地域農業改善事業で、外苑運動場として拡張整備され、今日に至り各種スポーツ振興の拠点として活用され、この一帯は昭和43年10月「新さぬき百景」の一つに指定された。
▼雄装熊外苑運動広場へ寄る、雄装熊外苑運動広場内
▼大簑彦神社へ向かう-2
▼大簑彦神社へ向かう-3
▼大簑彦神社へ向かう-4
▼反射鏡に…、大簑彦神社へ向かう-5
▼大簑彦神社へ向かう-6、左(北)側に五剣山の顔
▼大簑彦神社へ向かう-7
▼大簑彦神社へ向かう-8、大簑彦神社に着いた
大簑彦(おおみのひこ)神社は簑神(みのかみ)明神と呼ばれ、延喜式(醍醐天皇の延喜という時代に作られた施行細則)の巻九「新明帳」に載っているので、古くから有名で、格式の高い神社であったことが分かる。このような神社を「式内社(しきないしゃ)」と言い、香川県には24社があり、この中の3社が寒川町内にある。鳥居を潜り42段の石段を上がると広前に出る。
狛犬、注連柱の向こうに拝殿、その奥に幣殿、更にその奥、7段の石段の上に一間社の桧皮葺き、銅板覆いの本殿があるがこの本殿の主は、「蓑神」という自治会名の由来と言われている。しかし、どのような神様なのかは未詳である。古書には、「この神社は元、明神池の東の山腹に北向きに祀られていたのを、現在地に移転した」とある。
▼大簑彦神社-1
▼大簑彦神社-2、森広古墳群へ向かう-1
▼森広古墳群へ向かう-2
▼森広古墳群へ向かう-3
▼森栴檀川を渡る、森広古墳群へ向かう-4
▼森広古墳群へ向かう-5、森広古墳群案内板に着いた
森広遺跡は弥生時代を中心とした遺跡で、古墳時代・古代・中世に至までの広範囲に及ぶ複合遺跡でもある。
弥生時代後期には東讃岐の中心地であったと推定され、遺跡の範囲は森広遺跡(石田高校校庭含む)・森広天神遺跡・加藤遺跡・石田神社遺跡(平形銅剣出土)からなる遺跡群で構成される。これらの遺跡からは100軒以上の竪穴住居が出土しており、長い期間に地域の中心的な存在であったことが窺い知れる。森広天神遺跡からは巴形銅器が発見されており、全国で22例しか発見されていない貴重な遺物でそのうち8個が出土した。加藤遺跡からは銅鐸片が7点、破壊・埋納の状態で発見されている。(説明板より)
また、森広遺跡では県下最大級の円形周溝墓も発見され、古墳時代に続く権力者の登場が如実に現れている。
これだけの遺跡にも関わらず神社の前に説明板があるだけである。
▼森広古墳群案内板、森広天満宮-1
▼森広天満宮-2、さぬき市民病院へ向かう-1
▼森広地区の反射鏡、さぬき市民病院へ向かう-2
▼さぬき市民病院へ向かう-3、さぬき東街道を横断
▼石田高校前を通過、石田高校の農園ハウス群
▼石田高校の校門(販売会を開催中) 、さぬき市民病院へ向かう-4
▼長尾街道を左折、さぬき市民病院へ向かう-4
▼栴檀川(せんだんがわ)を西に渡る、左は栴檀川の上流
▼寒川町に入る、さぬき市民病院へ向かう-5
▼県道141号を西へ横断、さぬき市民病院へ向かう-6
▼さぬき市民病院が見えて来た、さぬき市民病院に着いた
▼武道館、大川バス停(JR高松駅まで)
大川バスでJR高松駅まで行き、JR予讃線に乗り換えて帰宅した。
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