今報の雑学 なぜセリフを「とちる」というのか
大正4年7月26日、チェーホフの「桜の園」が帝劇で初演。
「とちる」という言葉には「へまをやる」「まごつく」の意味もあり、「きのうの面接試験はとちってしまった」などといった使い方をするが、もともとは芝居用語で、舞台でうろたえてセリフや仕草を間違えることを「とちる」という。最近では食べなくなったが、昔の人は栃(とち)の実を粉にし、それを米粉や麦粉に混ぜてそばのようにして食べた。これを「栃麵(とちめん)」といい、こね棒のことを「栃麵棒」といった。栃麵作りのコツはこねた麵を棒で手早く延ばすこと。時間がたつと冷えて固まり、延びなくなってしまう。そこで急いで栃麵棒を動かすことから、あわてたり、うろたえたりすることを「栃麵棒」というようになった。「とちる」という言葉は、この「栃麵棒」からきているといわれている。栃麵棒が縮まって「とちめ」、それが動詞化して「とちめる」--「とちる」となった。
<Flower arrangement>
原因と結果の法則。
英国が生んだ謎の哲学者、ジェームズ・アレンの著書「原因と結果の法則」からその一節を紹介しますが、これはアレンが1902年に書かれたものだが、世界中でいまだに売れ続けているという驚異的なロングセラー書である。
世界の歴史上もっとも多くの読者を獲得してきた自己啓発書で、聖書に次ぐベストセラーだとさえ言われている。オンライン書店でも売られているので、購読をお勧めします。
私たち人間は、強さと知性と愛を備えた生き物です。と同時に、自分自身がめぐらす思いの主人なのです。私たちは、人生で直面するどんな状況にも賢く対処する能力と、自分自身を望みどおりの人間に創り上げるために使うことができる、変容と再生のための装置を内側にもっています。
私たちは、たとえもっとも弱い、もっとも落ちぶれた状態にあるときでも、つねに自分自身の主人です。ただし、そのときの私たちは、自分の所帯を誤って治めている、愚かな主人です。
私たちは、自分の人生に深く思いをめぐらし、それを創り上げている法則をみずからの手で発見したときから、自分自身の賢い主人となり、自分自身を知的に管理しながら、豊かな実りへとつづく思いを次々とめぐらすようになります。そのときから私たちは、自分自身の意識的な主人となります。
でも、私たちがそうなるためには、まず、自分の内側で機能している「原因と結果の法則」をはっきりと認識しなければなりません。そしてその認識は、みずからの試みと経験と分析によってのみもたらされます。黄金やダイヤモンドは、ねばり強い調査と試掘のあとで、はじめて発見されます。
そして私たちは、自分の心の鉱山を十分に深く掘り下げたときに、はじめて自分自身に関する真実を発見できます。もしあなたが、自分の思いの数々を観察し、管理し、変化させながら、それらが自分自身に、またほかの人たちに、さらには自分の人生環境に、どのような影響をおよぼすものなのかを入念に分析したならば……忍耐強い試みと分析によって、日常的で些細な出来事をも含む、自分のあらゆる体験の「原因」と「結果」を結びつけたならば……「人間は自分の人格の制作者であり、自分の環境と運命の設計者である」という真実に必ず行き着くことになるでしょう。
人間にとって、自分自身に関するこの真実を、身をもって知ることは、悟りであり、知恵とパワーの獲得にほかなりません。「求めよ。さらば与えられん」あるいは「扉はそれを叩く者に開かれる」という絶対法則は、ほかのどんな方向にでもなく、この方向にのみ存在しています。
知恵の寺院の扉は、忍耐とあくなき探求なくしては、けっして開かれることがないのです。
私たちの人生は、ある確かな法則にしたがって創られています。
私たちがどんな策略をもちいようと、その法則を変えることはできません。
新居宮池とWalking & Potteringの風景
夕日が東屋へ差し込む宮池。
春日川に架かるコトデンデン長尾線の橋梁と、高松自動車道。
A seasonal flower
開花時期は6月下旬~7月末頃、南アフリカ原産で、明治時代中期に渡来した。梅雨の頃、紫色の小花をたくさん咲かせる。
葉は君子蘭に似ている。根は太く強いので、斜面や土手などの土の流出を防ぐのに役立つらしい。
別名は「紫君子蘭」(むらさきくんしらん)。花言葉は「知的な装い」である。
<Akijii展、再展示>
今報はシェイプアートの「スズラン水仙」です。
引き続き、Vol.271-2/3をご覧ください。