Vol.247-23に続けてご覧ください。
<四国八十八か所讃岐巡りシリーズ>
16:《金倉寺》
第七十六番 鶏足山(けいそくざん)金倉寺(こんぞうじ)宝幢院(ほうどういん)
真言:おん、ころころ、せんだり、まとうぎ、そわか
御詠歌:まことにも神佛僧をひらくれば真言加持のふしぎなりけり
所在地:〒765-0031 香川県善通寺市金蔵寺町1160
<歴史・由来>
金倉寺は、弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」が誕生した地。縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。
その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊にした。「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようだ。
「智証大師」は、子供の頃「日童丸」と呼ばれ、たいそう賢いと評判でした。智証大師が2歳の時には、一人で遊んでいる幼い体からなんとも言えない後光が射しているのを付近の人々が見たと云われている。
そして、「きっと仏様が生まれ変わったに違いない。将来は必ず立派なお方になられるだろう。」と、この地に立派な子が生まれたと喜び合ったそうだ。また、5歳の時には目の前に天女が現れ、「貴方は三光天の一人、明星天子であり、虚空蔵菩薩の仮の姿。貴方が将来仏道に入るなら私がずっとお守りしましょう。」と告げられたという伝説もある。
この天女こそが、よその子供を食べた罪でお釈迦様に末子をとられ、子供を失った母の辛さを教えられた後に仏になったとされる「訶利帝母(かりていも)」(別名「鬼子母神(きしもじん)」)でした。
こうして訶利帝母に守られて育った智証大師は、修行を重ね、仏法を広めることに精進できたと云われている。
<略縁起>
光仁天皇(在位770~781)の時代、宝亀5年(774)智証(ちしょう)大師円珍(えんちん)の祖父、和気道善が開基しました。
智証大師は弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖で、天安2年(858)唐で天台密教を学び帰国後、唐の青竜寺を模して堂宇を建立し、本尊薬師如来を刻み安置した。当時は道善寺でしたが、延長6年(928)醍醐天皇(在位897~930)の勅命により、この地の郷名から金倉寺と改号した。
その後大いに栄え大寺となりましたが建武の争乱(1334~1336)、天文(1532~1555)の兵火に遭い焼失、寛永年間(1624~1644)讃岐の松平公により再建され祈祷所となった。
<境内>
山門をくぐると広い境内に出ます。
正面に本堂、左手に弘法大師と智証大師をお祀りした大師堂がある。
乃木将軍が善通寺の師団長であったとき、東京から妻の静子夫人が面会に訪れ追い返された。
その時、夫人が松の木の下で途方にくれた。
その松が「乃木将軍妻返しの松」として本堂手前右手にある。
▼山門、本堂
大師堂は、智証大師と弘法大師の像を安置している。
共に「大師」の称号を得、「讃岐の五大師」に数えられている。
また訶梨帝母堂は、本堂の左に尊像を祀っている。
--今報了--