<greeting card>
<3B2S、この一球>「想う」とは。
「思う」も「想う」も同じじゃないのか、と「思う」人がいるかも知れないが、違うのである。
上記に「思う人がいるかも」と記したが、これを「想う」とした場合、違和感を覚える筈である。「想う」という文字には、願いや希望や切なさ、思慮といった深い思いが内在している。
愛しい人や故郷は「想う」ものであって「思う」ものではないと言えば解かり易いだろう。それは深い心から湧き出て全身に染みわたるような想念である。
この機会に、心に染み込んで人を醸成していく「刷り込み(スリコミ)」について、考えてみよう。
「むかしむかしあるところに」に始まる日本の昔話には、必ず良いおじいさんがいた。それに対比して悪いおじいさんや鬼や狸などが出て来て、色々と騒動があった末に良いおじいさんに良い報いがくるという仕組みになっている。
舌切雀では悪いおじいさんの代わりにおばあさんが損な役割を与えられている。
おばあさんは糊をなめた雀の舌を鋏でチョン切ったという意地悪の上に、良いおじいさんが訪ね訪ねてやっと探し当てた雀のお宿でご馳走になり、お土産に貰ったつづらから金銀財宝が出てきたのを見て、舌をチョン切った事も忘れて訪ねて行くという鉄面皮。
その上お土産のつづらも大きい方を選ぶ欲バリ。そしてつづらからお化けが出て来て腰を抜かすというみっともない役回りだ。
私たちは幼い頃、このような話をくり返し、くり返し聞いて育った。
何回となく聞いているうちに「欲バリはいけない、意地悪はいけない、無欲でやさしい気持が大切なのだ」という事を覚えた。
つまり刷り込まれた。花咲じいさんでは「正直の徳」を、カチカチ山では「義侠心」を刷り込まれた。嘘をいってはいけない、死んでからエンマさまに舌を抜かれます、というのもスリコミのひとつである。誰も小理屈をいわず、単純さが通用する時代であった。
大人も子供も素朴だったし、今のように余計な情報が無かったから、スリコミは易々と行われたのである。ダサイかもしれないが、必要なスリコミではなかったか。
そこには人が生きていく上での基本が込められていたのである。
心霊研究家の中川昌造師の著書の中の「幸福になるためのソフト」五箇条を紹介しますが、大切なことは、この五箇条を実行してはいけない。
実行しようと意識するのではなく、ただ「想う」だけでいい。
意識して実行すると失敗する。
想うことでいつか身についてくることが大切だ、とある。
「今日一日、親切にしようと想う。今日一日、明るく朗らかにしようと想う。今日一日、謙虚にしようと想う。今日一日、素直になろうと想う。
今日一日、感謝をしようと想う。
これを紙に書き、いつも見える場所(トイレが最適)に貼って毎日見ること」
自分自身でスリコミをしてみませんか。
<今朝の新居宮池と、Walk百景>
冬が近づく宮池と、堂山、3兄弟(来年登りたい)の山々の姿です。
<今報の花>ウォーキングコースに咲くオシロイバナ
メキシコ原産で、江戸時代に渡来する。(ペルー原産との説もある)
ラッパ型の花が咲き、町中に野生化している。
熟した黒く固い種をつぶすと白粉(おしろい)のような「白い粉」が出てくるのが、名前の由来です。
色は赤、白、黄。英語では、一本の草から異なる花の色が咲くことから「marvel of peru(ペルーの驚異)」と言われている。
<香川県の史跡・名所シリーズ⑫:平賀源内>
平賀 源内(ひらが げんない)は、江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家。あらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチ!本名、国倫(くにとも)。高松藩足軽白石良房の三男。24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。
続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行、世人の注目を浴びる。本草学者として名を成した彼は、高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ脱藩する(33歳)。
この際、高松藩は源内を「仕官御構(おかまい)」に処した。 これは他藩へ仕官することを禁止するものだ。源内は自ら“天竺浪人”と名乗り、秋田秩父での鉱山開発、木炭の運送事業、羊を飼っての毛織物生産、輸出用の陶器製作、珍石・奇石のブローカーなど、様々な事業に手を出した。また静電気発生装置“エレキテル”、“燃えない布”火浣布(かかんぷ、石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を生んだ。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内だ。
一方、画才、文才も惜しみなく発揮。油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武らに西洋画法を教えた。浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生した。
作家としてのペンネームは浄瑠璃号「福内鬼外」、戯作号「風来山人」となかなかシャレている。
35歳の時に書いた『根南志具佐(ねなしぐさ)』『風流志道軒伝』は江戸のベストセラーとなり、明治期まで重版が繰り返される。後者は主人公が、巨人の国、小人の国、長脚国、愚医国、いかさま国など旅するもので、江戸版ガリバー旅行記といった感じだ。
次の写真はシャッターを切った後、撮影禁止(貼紙有り)だ、と言われた。
『放屁(ほうひ)論』ではまず「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」と屁の形態を論じた後、当時江戸に実在した屁の曲芸師を引き合いに「古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人は誰もいない」と称賛。さらに半ば自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師と言った。つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。…いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っている。ちなみに「土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。
多方面にわたる才能を持ちつつも、キワモノ扱いされて当時の社会に受け入れられず、やがて彼自身も世間に対して冷笑的な態度を取り始める。 著作では封建社会をこきおろす作品を発表し、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露した。
50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって人間不信、被害妄想が拡大し悲劇が起きる。自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時のこと。源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図がない。とっさに“盗まれた!”と思った彼は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高し、ついに2人を斬り殺してしまう。だがその図面は、源内の懐ではなく、帯の間から出てきたのであった…。発狂した源内は、厳寒の小伝馬町の牢内で獄死した(享年51歳)。
源内の墓標を建てたのは、彼と同様に好奇心が強かった無二の親友、杉田玄白。玄白は「ああ非常の人。
非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」と源内の墓標に刻んだ--。
--今報了--