1967年 昭和42年 11才頃

小学校4年頃、小倉の父の元へ引き取られてすぐ頃から、誰からの指示かはわからないが牛乳と健康飲料の配達のバイトをやらされた。

朝の5時くらいに起きて、住んでた団地の中を階段を昇り降りしながら、決してたくましいとは言えないやせ細った体で、両腕に10本ずつを行ったり来たり、上ったりおりたり、雨の日も毎日。

筋トレや健康維持の為と言えば聞こえはいいが、そうでもない。

バイト代は給食費や授業料に回っていたのか、たいした小遣いは貰った記憶は無い。

中学生になってからは、更にそれに新聞配達も加わった。朝は4時起き。

この頃、剣道を習わされてたので、そういう事にも余計なお金がかかってただろうし。


学校へ行く頃にはへとへと。

家事の手伝いも半端ではなかった。
小学校4年から、家事ひととおりはさせられていた。

朝は家族全員の布団あげ、もちろん親達のも。(いまでも、これは許せない)

学校から帰れば掃除機かけ、拭き掃除、買い物、米とぎ、夜は食器洗い、ぬか味噌混ぜ、風呂の準備、

反抗すると、剣道の竹刀をバラした1本の竹のむちでひっぱたかれていた。

夜は洗濯。

これが一番辛かった。
洗濯機はベランダに有ったので冬場は凍えそうな寒さ、もちろん自動なわけが無く、洗剤の節約のため、何回もバケツへの移し替え、脱水と、長いと2時間くらいかかった。

なので、冬場ははいつもしもやけ。
ゴム手袋を買ってはくれたが、指が腫れすぎて入らなかったのを無理やり突っ込んでたので、夜中は痛くてしょうがなかった。
安物の手袋だとすぐに穴が空くし。。

あかぎれには雪の下という葉っぱやアロエをつけさせられてた。

おまけに、剣道をやってたので、小手をはめるとかなりの拷問状態…

他にも、畑仕事。きゅうり、なす、おくら、トマト、にがうり等々。
耕しから種まき、水やり、収穫と一年中。

兄が一緒にいた数年は兄と分担で良かったが、
兄が中学を卒業してすぐ自衛隊にいったので、これらの家事はすべて私に来た。

今から思えば、お陰様でやわなお嬢様よりは家事に長けてると思う。

では、家の人(父の最新の妻)は何をやってたのか? という疑問。

低血圧で動けないと、いつもゴロゴロ寝てた。 もちろん、父が家にいる時は違うが、影日向のある人だった。

こんな生活だったので学校から帰って遊ぶ時間やテレビを見る時間などほとんど無く、当然友達も少なかった。

手がいつも荒れてて、やせ細り、
無口で暗い少年だった。

嘘の様な本当の話…



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今月は本当に調子の悪い月だった。

月初めから悪寒が毎日続き、主治医には訴え続けたものの、結局は数日前のCT検査の結果、ようやく肺臓炎らしきと分かりステロイド剤の処方。
毎週撮ってるレントゲンや血液検査じゃ判断出来ないの? という素人の単純疑問。

同様に、1月の手術後、2週間置きにレントゲン、血液検査をやってるのに5ヶ月もの間、CT検査やPET検査でないとガンの再発は診断出来ないの??
との素人の疑問。。

6ヶ月経って、ようやく痛みの緩和ケア専門Dr.にお会い出来て 鎮痛剤のシステムを2週間かけて調整、ようやく痛みから半年ぶりに解放される。 通常こんなもん??? という素人の疑問。

医学界は素人では分からない事だらけ。

政治も分からない事だらけ。

何もかも分からない事だらけ。

とにかく、半年ぶりに今日は調子がいい。 これでちゃんと歩ければ、今夜何処かのライブに行きたい気分




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放射線治療は9月9日に終了したが、この頃から急に体に異変。

毎日夕方に手先が氷のように冷たくなり、その後猛烈な寒気、発熱が2~3時間続く。その間は布団にくるまって動けない。この途中が夕食時間なので、まったく手がつけられない。

夜はゲップが出ない感じで呼吸が苦しくなり酸素吸入、夜中は喉が焼けるようにカラカラで、これをアイスノンで冷やす。

食事がまったくできないので、胃腸がキリキリ痛む。

背中に激しい痛み!

など、盛りだくさんの苦しみで、朝まで数時間おきにレスキューモルヒネを飲む。

約10日間この繰り返し。

なので、日中の気分は夜に比べて良いものの、もうろう状態。

点滴を打ってるので体の自由もままならない為、ネットもあまり見れない。
で、ブログをしばらく休み。

テレビは目が疲れるので見てない。
第一、最近の番組はまったく面白くないし。

音楽も聴く余裕もなかった。

なので、ほとんど10日間 暗闇、無音の状態。

ただ毎日布団にくるまって丸くなり、明日は良くなると信じ、じっと堪える。

途中マジでダメかもと考えたりもした。

主治医がやっと本気で考え出してくれたか、この一週間で色々な対策を打ってくれた。
管理栄養士の派遣で食べれるメニューの相談を数回、
鎮痛剤のシステムをモルヒネ系から、更に強力なデュロテップパッチに変更。
骨への転移調査の為、骨シンチ撮影。
(結果はまだ聞かされていない)
リハビリの延期などなど。


で、ようやく少し痛みがコントロール出来てきた感じで、何かをする気力が出て来た。


放射線治療の副作用の喉の痛みもようやく治まり始め、水分は飲めるようになり、食べ物も数口程度は食べれるようになった。
ただ、まだ食欲というものは無い、食べなければという義務感のみ。

退院予定は大幅なずれ、当初は遅くとも先週金曜日と考えていたのに、この分では月末までは無理かも。
何も急いでる訳ではないが…

正直、疲れた…


隣は小学校、毎日 運動会の練習の歓声が響く。
ここは13階で、ベッドに寝たままなので空しか見えないが、 もう秋か…




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体調不良につき、しばらく休憩です。



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1971年、昭和46年 15才。


中学卒業後どうするか。



親の期待していた自衛隊はとりあえず不合格となりどこの高校に進学するかを決めなければならなかった。



中学になって、自分から進んで勉強をしてたので(笑)(家事手伝いからの逃避策だったが) 成績は悪くは無かった。



塾なんてのは行けるわけないし、満足な参考書が買える訳でもなし、ひたすら教科書で勉強。



ある日友人の英語のガイドブックを見せてもらってびっくり!

教科書全部の和訳が載ってる! しかも
いつも宿題に出る所、これはカルチャーショックだった。



とりあえず、金は無いから大学なんてとんでもないから普通高校は対象外。

となると、理数系の私が選ぶ道は工業高校しかない、ということで、志望校は最終試験直前まで、ずっと小倉工業高校電子科だった。

偏差値は最高で60いくつ有ったので、小倉高校以外は、ほぼどこでもOKだったので工業での模擬試験はいつも一番だった。 (今の時代、偏差値なんて無いかも)



この時に感じたのは、上のクラスの下の方で必死コクより、クラスを落として楽に上位にいた方が余裕が持てるな。って事。



ただし気になってた点が一点。

小倉工業は家のすぐ近くだった。



最終的に、最後に一回志望校を変える事が出来るチャンスが有った。



そこで、私は志望校を変えた

小倉商業高校。 偏差値は工業の更に下。

理由は単純。

この高校に行くには電車通学で、小倉の町のど真ん中を通らないと行けない。 これが第一!

もう一点、その頃心を寄せてた女の子が小倉商業を受検すると知ったから。

単純。

別に彼女でもなかったが、というか、彼女はまだいなかった!



が、商業に変えた事が私の以降の人生を変えたキッカケです。



商業には楽勝で合格。



で、晴れて電車通学!

驚いた事に、生徒の7割位は女性。

電車の中、朝礼の広場、学食など、ハッキリ言ってウンザリだった。



1年生の間は学校の授業だけで十分。

テストはほとんどの科目満点。

で、当然通知表は体育を除きall 5



体育は体が弱かったので実技がだめ。

ちなみに、この学校では過去男子生徒が学年1位となった事はなかったそうだ。

毎回の試験結果上位は校内に貼り出されていたので、知名度は急上昇した。



2年生の時点で進路を決めろと進路指導の先生に迫られ、大学を受けろ!と言われたが断わる。



ただ、給料が貰える税務大学というのは受けて合格。
当然、そんな堅苦しいとこには行く気も無かったが。

ここに行ってれば、今頃はどこか地方の税務署長かな。



あと、民間企業は最優先に受けたい企業を選んでいいと言われ、日本銀行、日本電気、日本鋼管と、日本が会社名についてれは安心だろう!と、安易な考えで、その頃バレーボールや野球、バスケットなどでよくテレビに出てた日本鋼管を受ける事に決定。



大人になって、銀行系にしとけば良かったと大後悔。



試験はかなり早い時期に終わったと思う。



ま、私は別件で高3の途中で退学届をだしたので、もう一波乱有るが…



今のかみさん、って一回しか結婚してないのでこういう言い方もおかしいが、この高校で知り合った。



という事で、私の人生、高校2年生の時点で大筋決まってた。



もっと波瀾万丈になるかと思ったが、案外、気が小さい!











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入院生活って暇そうで退屈そうだけど、あまり、ゆったりとした時間は多く無い(私にとってはの話し)

毎日があっという間に過ぎて行く。
今回はもう50日が経過。

苦痛の放射線治療は残すところ、あと4回!

入院での規則正しい毎日を書いてみる。

朝 6:00 痛み止め オプソを貰い飲む
6:30 洗顔、歯磨き
7:00 食前の薬を飲む
7:30 朝食 (眺めるだけ)
8:00 MSコンチンを飲む
8:30 食後の薬を飲む
8:45 主治医 回診
9:00 日勤 看護師 挨拶
9:30 放射線治療へ
10:20 放射線治療より戻る
アルロイドG飲む
10:30 シャワーもしくは体拭き
着替え
10:50 点滴開始
11:00 食前の薬を飲む
11:30 昼食 配膳 (見るだけ)

点滴開始、この辺でJAZZを聴きながらまどろむ。

12:30 食後の薬を飲む
薬が食事のようなもの(笑)

13:00 点滴取り替え
13:30 看護師の回診
14:00 アルロイドG飲む
16:00 点滴終了
だいたい、食後しばらくして眠くなり、長い時は17時まで熟睡してしまう。 起きてる日は雑誌を読んだり、ネットを見たり。

17:00 食前の薬を飲む
主治医回診
17:30 夕食配膳
18:00 食後の薬を飲む
20:00 MSコンチンを飲む
アルロイドG飲む
21:00 睡眠導入剤、他飲む
21:30 消灯 本当に寝る
23:00 喉の痛みで眼が覚める
アイスノンの取替え
トイレ、水分補給
以降、朝まで2時間置きに同じ。

一日の中で起き上がってるのは、放射線治療への往復20分、毎食事時20分の計60分、で、合計80分くらい。

夕食後の18時から寝るまでの間、約3時間が一番長い自由時間、テレビは見ない。
ブログを書いたり、Twitter見たり、インターネット見たりがほとんど。

お見舞い客は午後3時過ぎから6時までが一番多い。

かみさんは週に2回くらい、仕事帰りに洗濯物の交換に5分ほど寄る(笑)

ね、結構充実してるでしょ!

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放射線で焼けた首まわり。
中の食道はただれ状態!

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母は60才で自分の店を閉めた。
それまでのお客様にババァの姿をいつ迄も見せるのは失礼だと、なかなか潔い引退だった。1994年、平成6年。
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私が一軒家を購入した年である。
そしてジンクス通り(家を買うと転勤)、すぐに私は三重県に単身赴任となった。

ここから、母が亡くなる2003年までの約10年間、母とは年に数回のペースで頻繁に会っていた。

母には自由な時間が出来、1996年頃京都に行きたいという話がまとまり、母と二人で京都に行った。

二人で腕を組んで、まるで恋人同士のように河原町や高台寺、清水寺、太秦撮影所、嵐山などを歩き周り四条河原町の鴨川に近くの旅館に泊まった。

親子始めての一泊2日の旅行。 花見。

母にとっては死ぬ迄叶わぬ夢と思ってたらしい。私を見捨てたと思ってた。

見捨てた子供が会ってくれる筈が無いと悩んでた。
こちらは全然そんな大げさな事とは考えてなかった。
たったひとりの母。

京都、今では懐かしい場所。

毎年春になると京都へ行きたくなる。 あの時入った店で食事をし、同じ小路を通る。
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そして、1998年、母を私の三重県の単身赴任アパートに呼ぶ事にした。

母の面倒は私がみる!と小さいころ見栄をはって言ってたが、そのプチ体験。
10日間くらい一緒に暮らして見ようよ!ということになり、布団を買ったり、炊飯器、食器など色々買い揃え、私が会社に行ってる間何か有ったら困るだろうと、プリペイド携帯も買った。

そして、始めて母子家庭が実現した。
母が料理をし、私の帰宅を待つ。
嬉しかった、とてもいい思い出が出来た。

私がいつもお世話になっている居酒屋よこい、第二の母の店にも連れて行った。
出来るだけ共通の話題を増やして置きたかった。

伊勢、賢島にも行った。
信楽にも行き、そこから唐突に京都の雅兄貴の家までも連れて行った。

雅兄にとっては母と会うのは本当に40数年ぶり。会わせて良いものかどうかためらったが、双方合意したので連れて行った。

もっと長く一緒にいてもよかったのだが10日くらいがちょうど良かったのか、母は満足して下関へ帰った。

その後私の単身赴任も終り、母を一度横浜にも呼び寄せた。

中華街 聘珍楼で食事、鎌倉、東京など数日間。

2002年頃の私の仕事は会社を統合するための準備作業で、毎月日本中をかけ回っていた。 なので、九州 有明に行く際は必ず母の家へ泊まって休日を過ごしていた。
母はふぐの調理人の免許も持っており、一度彼女にさばいてもらい、目一杯食べさせて貰った。


晩年は、
本当に過去に何も無かったような、幸せな母子のような日々が送れた。




そして、最期にも。

小さい頃の私の心配は、もし母に何か有ったらちゃんと連絡は来るんだろうか? 死に目には無理でも通夜、葬式には顔を出せるだろうか?ということだった。

母が亡くなった月は、半分ほど彼女と一緒に過ごせた。すでに入院中だったが、毎日母の家から病院へ通ってた。
そして、2003年12月29日夕方、私の手を握りしめて、あの世へ行った。

良かった。私の希望は叶った。

ひとり寂しく死んで行く運命と思ってた彼女にとっても予想すらしてないハプニングだったろう。



母が亡くなった次の日、ようやく40年ぶりに父は母と再会。

母は「父の事は恨んで無いよ」、と死ぬ前の週に昔話をしていたが、
私は父を許せない心情に変わっていた。

私にとって、父は最初から存在してなかったのかも。
だから、今までも 父に会いたい!という気持ちが起きなかったのかも。
故郷が無い感覚。


赤間のばあちゃん(祖母)には数ヶ月後会いに行ったが、母の死は伝えなかった。(実は母が亡くなった同じ年に、母の妹も亡くなっていた)
ボケで入院中ということにしてた。
「子供は親より先に死んじゃーあかん」 ばあちゃんの言葉。
この数年後、ばあちゃんも亡くなった。

母のお骨は母の希望通り、一つは唐戸の海へ散骨、一つは亀山神宮の境内のどこか、そして、もうひとつは私の手元。これはいずれ私の墓に入れる。



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今日で27回終了。
あと6回。

副作用が出始めてからほぼ半月。
だいぶん慣れて来た。


食道内部はやけど状態、食事はさましたお粥をスプーンで数さじ程度食べるのが精一杯、水分も 一口で20cc程度を舐めるように呑むのが精一杯。

ただ、アイスや柔らかい果物の缶詰はゆっくりとなら食べれる。

出来るだけ口から取るように言われてたので頑張ってたが、
一日の栄養と水分、こんなんでいいのかなー?と心配になり、
ついに昨日ギブアップ!

点滴を再開した。

点滴は無理せず早めに打って貰った方がいい。で、食事も頑張って食べればいいんだから。と、反省。…


飲み薬も4種類ほど減らしてもらい、少しは楽になった。

首の周りから胸にかけ放射線に日焼け状態で皮がむけ、かさぶたが出来てかゆい。当然かいてはダメ。
かゆみ止めなどの薬は塗ってはいけない。
なので、アイスノンなどで冷やすしかない。

症状は治療中におさまることはなく、回を重ねる毎にひどくなって行き、治療が終わってから徐々に回復との事。
はー ため息…

処方される薬は2種類

1.アルロイドG 食中に20ml
緑色のドロドロの何とも気持ちの悪い液体だが、今では早く飲みたい薬。

2.ポンタールシロップ 食前に8ml
白くて爽やかな味。

これ以上に手の打ちようはないとの事。


以上、ご参考までに。
これは肺癌で胸部に照射する人だけね!


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母との別れ…の続き


1964年 昭和39年~1965年頃

小学校2年生の時、父の元に引き取られ小倉で生活することになったが、


耐えきれず家出した。



どのようにして、また、何日かかったのかは覚えていないが、

とにかく、次の記憶は山口県の厚狭という駅だった。


駅のアナウンスで「あさ~」
朝って変な駅?って思ったので覚えてる。


汽車に乗れば母に会いに行ける!
という単純な思考で行動してたようで、たまたま厚狭が終点の汽車に乗ったのだろう。

当然切符なんて持ってるわけが無い。

どうやら そこで駅員に保護されたようで、

駅の事務室でかつ丼を食べさせて貰った事を覚えている。


以降、事務室(もしくは、鉄道公安官室)でかつ丼!というパターンは良く使った。

見た目によほど腹ペコに見えたのか、捕まると必ず


「お腹すいてんのか?」


と、聞いてくれる。


「はい!」


と言うと、大体かつ丼を出してくれる。


その後、「トイレ!」 と言って裏口からそっと抜け出す。(笑)


最初に保護された時は素直に自分の名前と母の名前を答えた。
多分住所は言えなかっただろう(知らなかった)


そして、山口県のどこかの施設に収容された。

当時は施設と言っていた、 今は児童相談所。 響きはいい。

どのくらい経って、どうやって調べたのかは知らないが、

ある日母が施設に知らない男の人の車で迎えに来た。

母に会いたくて家出し、やっと会えたんだから嬉しかった筈なのに。

いやな予感がした。


母の顔は怒っている。

そして、そのまま車で小倉へ連れて行かれたが、母も父の家の場所を知らなかったようで、

私に質問を繰り返しながら、ようやく探し当てたようだ。


母の顔は相当イライラしていた。

その時の母の表情が十数年私の脳裏に焼きついたままに。

そして、私を残し去って行った。




そして、また家出。

次に保護されたのは多分福岡県のどこかだと思うけど、そこからは名前も何も言わなかった。

父が家出人捜索の依頼を出していたのか、大体1~2週間くらいで父が迎えに来たような。



そして、また家出。

一番遠い所は東京駅だった。


持ち物の何処かに手掛かりを付けていたのか?

父に連絡が行ったようだ。
その時は逃げる事の出来ない檻(少年院?)の中に入れられ、数日後、父が迎えに来た。

こんな事をどのくらいの期間繰り返していたのか正確に覚えていないが、多分数ヶ月以上?

捕まって施設に保護されてる期間以外はろくに食事も出来ず、風呂にも入れず、

夜は公園や土管の中。

本当に乞食状態だった筈。



最後は父も家に引き戻す事をあきらめ


今の八幡児童相談所に私を預けた。



もう小倉に連れ帰えされる事は無いとは思ったが、

やはり、ここからも何回か脱獄したのを覚えている。

そして、数ヶ月後赤間のばあちゃん(母方の実の祖母)の所へ引き取られる。

ばあちゃんが、父が私を施設に入れた事に激怒し、「私が育てます!」と、連れ帰ったらしい。

赤間のばあちゃんの所から久しぶりにで小学校に行き始めたのは3年生、

すなわち、半年から1年の放浪生活。
(赤間の事は、また別に書く)

戦後 まだ十数年だったから、

こんな変な汚い子供が町をウロついていてもあまり不思議ではなかったのか?


今ではニュースになりそうだ。


とんでもない非行少年。

それとも、当時新聞の片隅にでも載っていたのかもしれない(笑)


大人になって下関で母の友人によく言われた事(当然私はその人の事なんか覚えてはいないが (笑))



「ま~あきちゃん! ヤクザの道にも入らんと よーまともな大人になんしゃったねー!」


だって(笑)











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今週は月曜日からお見舞いが連続♪
充実した毎日だった。

月曜日はJAZZ ISのママ みぃちゃん。
私よりもガリガリ(笑)
お店大変な時期にお見舞いまで、有難う(泣)

水曜日、木曜日は上町のJAZZ友がいろんな暇つぶし物を持って来てくれた。
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しかし、病室ではハーモニカの練習は出来ない(笑)

今回の入院でのお見舞いはほとんどがJAZZ関係(泣)
共通の話題が多いため、話が盛り上がる。
いかに毎夜、ライブハウス巡りをしていたか、という証か(笑)

木曜日は娘も突然やって来て、持参した昼飯を食べて風の如く去って行った。

さらに、数週間前迄この病室にいた方がお見舞いを持って来てくれた。

今日金曜日は、またしても面会時間外に本社のI部長とF課長が突然(笑)
会社の昼休みに抜け出して。

明日は三重から弟 浩くんがまた来てくれるし、神戸の親戚のおば様も来るという。

ありがたいことです。
皆様に感謝、多謝!




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