1971年、昭和46年 15才。


中学卒業後どうするか。



親の期待していた自衛隊はとりあえず不合格となりどこの高校に進学するかを決めなければならなかった。



中学になって、自分から進んで勉強をしてたので(笑)(家事手伝いからの逃避策だったが) 成績は悪くは無かった。



塾なんてのは行けるわけないし、満足な参考書が買える訳でもなし、ひたすら教科書で勉強。



ある日友人の英語のガイドブックを見せてもらってびっくり!

教科書全部の和訳が載ってる! しかも
いつも宿題に出る所、これはカルチャーショックだった。



とりあえず、金は無いから大学なんてとんでもないから普通高校は対象外。

となると、理数系の私が選ぶ道は工業高校しかない、ということで、志望校は最終試験直前まで、ずっと小倉工業高校電子科だった。

偏差値は最高で60いくつ有ったので、小倉高校以外は、ほぼどこでもOKだったので工業での模擬試験はいつも一番だった。 (今の時代、偏差値なんて無いかも)



この時に感じたのは、上のクラスの下の方で必死コクより、クラスを落として楽に上位にいた方が余裕が持てるな。って事。



ただし気になってた点が一点。

小倉工業は家のすぐ近くだった。



最終的に、最後に一回志望校を変える事が出来るチャンスが有った。



そこで、私は志望校を変えた

小倉商業高校。 偏差値は工業の更に下。

理由は単純。

この高校に行くには電車通学で、小倉の町のど真ん中を通らないと行けない。 これが第一!

もう一点、その頃心を寄せてた女の子が小倉商業を受検すると知ったから。

単純。

別に彼女でもなかったが、というか、彼女はまだいなかった!



が、商業に変えた事が私の以降の人生を変えたキッカケです。



商業には楽勝で合格。



で、晴れて電車通学!

驚いた事に、生徒の7割位は女性。

電車の中、朝礼の広場、学食など、ハッキリ言ってウンザリだった。



1年生の間は学校の授業だけで十分。

テストはほとんどの科目満点。

で、当然通知表は体育を除きall 5



体育は体が弱かったので実技がだめ。

ちなみに、この学校では過去男子生徒が学年1位となった事はなかったそうだ。

毎回の試験結果上位は校内に貼り出されていたので、知名度は急上昇した。



2年生の時点で進路を決めろと進路指導の先生に迫られ、大学を受けろ!と言われたが断わる。



ただ、給料が貰える税務大学というのは受けて合格。
当然、そんな堅苦しいとこには行く気も無かったが。

ここに行ってれば、今頃はどこか地方の税務署長かな。



あと、民間企業は最優先に受けたい企業を選んでいいと言われ、日本銀行、日本電気、日本鋼管と、日本が会社名についてれは安心だろう!と、安易な考えで、その頃バレーボールや野球、バスケットなどでよくテレビに出てた日本鋼管を受ける事に決定。



大人になって、銀行系にしとけば良かったと大後悔。



試験はかなり早い時期に終わったと思う。



ま、私は別件で高3の途中で退学届をだしたので、もう一波乱有るが…



今のかみさん、って一回しか結婚してないのでこういう言い方もおかしいが、この高校で知り合った。



という事で、私の人生、高校2年生の時点で大筋決まってた。



もっと波瀾万丈になるかと思ったが、案外、気が小さい!











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