龍に乗って逝ったお袋さん | ミタクエオヤシン

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ミタクエ・オヤシンとはネイティブ・アメリカン、ラコタ族の言葉で「私に繋がる全てのもの」という意味です。
だから、みんなつながっていこうね!

日々日常、非日常、音楽、映画、宇宙、スピリチュアル・・・などを綴ります。

この話はもちろん事実ですが、自分のためにも書き留めて置きたいと思います。

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その日、ぼくは蒲田駅の近くにある大田区産業プラザにいた。
それは、マヤの長老ドン・アレハンドロ氏の東京講演を聞くために。

『こころのかけはし 祈りの和』というイベントのため、マヤの長老、そしてワイタハ族の長老、エリザベス・アロヨ女史が来日していた。
6/16には山中湖で富士山への祈りのセレモニーが開かれ、友人の舞人、阿利ちゃんたちもそこで奉納舞で参加していたので、そのうちに会ったときにでも話が聞けたらいいなくらいに思っていた。

そして翌週、なにげなくイベントの情報をネットで見ていたら、なんと6/23に蒲田駅の近くで、講演があることを知った。
それは前日のことだったのだが、予約入れないでも大丈夫そうだったので、ぼくは行くことに決めた。
どうしてかと言えば、その時は池上に住んでいたので、30分もかからない距離だったからだ。
普段は腰が重いのだが、こんな近くでマヤの長老の講演があるのだから行かない手はなかった。

13時から始まるのだが、すでにたくさんの人が来ていた。
後ろの方の席は空いていたので、椅子に座り講演席の横のパネルを見ると、なんと18時近くまでのタイムスケジュールだった。

初めはオーガナイザーであり、沖縄のかみんちゅ、比嘉良丸・りか夫妻による話と祈り合せだった。
「かみんちゅ」とは、沖縄における、神の啓示にて祈りを行うシャーマンのことである。

比嘉夫妻は、震災害、天変地異を未然に防ぐために日々、神霊の指示・啓示によって日本全国くまなく祈り歩いている。

そして最初の休憩タイム。
司会の方のアナウンスで講演中は携帯電話の電源をオフにしてくださいと言われていたので、この時に電源入れてメールチェックをした。

15分ほどの休憩タイムが終わると、エリザベス・アロヨ女史が壇上に。
彼女は、マヤの長老ドン・アレハンドロ氏のパートナーでもあり、マヤ民族長老評議会のコーディネータ及び、通訳として世界中を旅し、母なる地球との統一、バランス、ハーモニーをもたらすために、各地でのセレモニーや会議へと招聘されている。
女性ならではの包み込むような母性エネルギーに満ちていて、彼女のおだやかな人柄に癒された。

そして、次はワイタハ族の長老テ・ポロハウ・ルカ・テ・コラコ氏。
ワイタハ族とはニュージーランドの原住民で、マオリ族よりも歴史が古いらしい。

彼は、厳しい通過儀礼を3歳の時に行ったシャーマンで、「ドラゴン・ケア・テイカー(龍のお世話する人)」でもある。

そしてワイタハ族は「水の番人」でもあると。

長老によれば、日本人とワイタハ族は同じルーツを持つ龍族らしく、ルーツはシリウスにあると言う。

長老は、とても茶目っ気があり、いつの間にか会場全体がとても和んでいた。
彼曰く、この会場にはドラゴンがいっぱい来ていますと。
そして日本は金龍の国と。
特に印象に残ったのは、今は水の時代で、これから水が戻ってきます。だからそれを楽しんでくださいと言う。
ぼくは、え?洪水?と思ったが、あまりにもの彼の愛に包まれた笑顔で言われると、恐怖感もなかった。

長老の話のあと、質疑応答の時間になった。
その時、前の方で手を挙げた青年がいた。
彼は壇上に呼ばれ質問した内容は、数ケ月前に祖母を亡くしたのだが、自分は小さい頃から龍と縁があるように感じるのですが・・・祖母とも龍の関係があるのか云々という内容。

すると長老は、すごいうれしそうにその青年のそばに行きハグをした。
青年はなにかきょとんとしながら、ただハグをされるままだったのだが、会場はなにか高揚したエネルギーでいっぱいになったように感じた。
龍神様たちが微笑んでいたのかもしれない。

ぼくもなぜか、その光景に胸が熱くなりジーンとしていた。
もちろん龍神は見えないけど。


そして2回目の休憩タイムになった。
その瞬間だった。
マナーモードにしていた携帯のバイブ音に気づいた。
ぼくはすぐに電話に出てみると、それは病院からだった。

実はその日の1週間前にたまたま実家に寄ったところ、玄関を開けるなり、廊下でお袋さんが倒れていた。
声をかけると意識はあったのだが、すぐに救急車を呼んだ。
幸いレントゲンの結果、骨や頭に異常はなく、膝を少々すりむいているだけだった。
どうやらトイレに行った帰りに廊下で転んでそのまま動けなくなったらしいのだ。

でもその場で半日近くその状態だったので、かなり体力が消耗していたようだった。
病院ではご飯を食べることができず点滴状態だったが、ほんの少しづつだが、状態は良くなっていた。
そんな感じだったので、土曜日はその講演に行って、帰りに病院に寄ろうと思っていた。

病院からの電話は思わぬものだった。

お袋が亡くなったと・・・。


思わず、うそでしょ?と言いたかったが、口からは本当ですか?と聞いていた。
16時29分に息を引き取ったと。

ぼくは最後のマヤの長老の話を聞きたかったが、もちろんまっ先に病院に駆けつけることにした。

慌てて会場を去りながら、携帯履歴を見てみると、4回も病院からの着信があった。
最初の履歴は16時17分。
そのあと数分おきに電話が来ていたのだ。
ぼくは4回目の17時10分の電話でようやく気づいたことになる。

不思議だったのは、いくらマナーモードにしていたとはいえ、足元のバックの上に置いていたので、普通ならのそのバイブ音に気づいてもよさそうである。

それにしても最初の電話が16時17分だから、その12分後に息を引き取ったことになる。
急に様態が悪化したのだろう。

30分ほどで病院に着くと、看護師さんに先導され病室に向かった。

お袋さんは、とても安らかな表情だった。

看護師さんによると、とにかく急な出来事だったらしい。
その日の早朝、少し尿の出具合が良くなかったが、その後、安定したという。
もしもその時、様子がおかしかったら、身内のぼくに電話して来ていただろう。

結局は16時17分に急変してから12分後に逝ってしまったわけだ。
病院にいない限り、何処にいてもおそらく間に合わなかっただろう。

実はお袋さんは乳がんをわずらっていた。
半年ほど前から、その病院に通院し、進行は遅かったのだが、リンパに転移していたので、
手術は出来なかった。
幸い、お袋さんは全然痛みはなかったらしく、進行を見守るという状況だった。
医者からは、余命何ヶ月とかは言われてなかった。
だからぼくは退院しても数年は生きられるのだと思っていた。

お袋さんが逝った前日、ぼくは退院後のことを考慮して、介護申請の手続きをしてきたばかりだった。
そのことを前日にお袋さんにも伝えていた。
だから安心しててよと。

お袋さんは、ぼくに迷惑をかけまいと思ったのだろうか?

なによりもよかったことは、最期までお袋さんは苦しまずに逝けたことだ。

まさに仏様のような死に顔だった。


そしてぼくは後から思った。
なぜ最初の電話に気付かなかっただろう。
思い起こせば、その時間はちょうど、ワイタハ族の長老の質疑応答の頃で、その会場には、金龍がいっぱい来ていると長老が言っていた時間だったのだ。

そしてなぜ、ぼくはその会場に行ったのだろう。
それは場所が近いということだが、それも偶然なのだろうか?

ぼくには龍神は見えないが、今思えば、その場に引き寄せられたような気がしてならない。

もしかしたら、あちら側で巧妙にその時間をセッティングしていたのかもしれない。

人は死ぬときには、あちら側に逝くタイミングを選ぶのかもしれない。

チベットの「死者の書」と言う教典では、臨終を向かえた人の枕元でラマ僧がこの教典を読む習慣があると言う。

それは光への道に迷わないように。

状況は違うけど、お袋さんは龍神がたくさん集まる場にフォーカスして、その瞬間を選んだのかもしれない。

枕元にはいれなかったけど、ぼくは龍神がいっぱい来ている「場」に呼ばれ、「道」を案内したのだろうか?

だから、もしもぼくが最初の電話に気づいて出ていたら、その場でパニクっていたに違いない。

きっと天国のオヤジさんもあちら側で手伝っていたのかなぁ。
ちゃんと迷わずにここに来なさいとね。


ぼくはある意味、あっぱれ!とも思った。

その逝き方に。

龍に乗って逝ったお袋さん!

ありがとう♪


でもマヤの長老の話も聞きたかったなぁ(^^)

なんて~。



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追伸。

ああ~やっと書けました~。
少しづつは書いていたのですが、なかなか言葉で書くのに時間がかかってしまいました。
まあそれからの約2ヶ月間は怒涛の毎日でした。

それにしても本当に今でも不思議な気がしています。
どうしてあの日にお袋は逝ったのかと。
人はやはり死のタイミングを選ぶのでしょうか。
まあある意味、龍神様のエネルギーに乗っていけたのなら、たましい的にはゴージャスな逝き方だったのかもしれません。

長文になってしまいましたが最後まで読んでいただき感謝です~♪