26 ヤギさんのいきものがたり(徒然日記) | 賭の虫

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◇あくまでオケラさんの日記帳!内容も表現も自由!言いたい放題、書きたい放題!誰に遠慮することも無く、書きっぱなし言いぱなし!こんなにも人様の事を考えない【自由】過ぎるブログは大嫌いっていう人は 無理してアクセスして来なくて結構です!

毎日朝は4時前に起床する。まず顔を洗って、バターロール二個とコップ一杯のホットミルクで朝食をとる。

それから自室に移動し、今日はどんな内容のブログを書くか念入りに構想を練る。昼頃までアレコレいろいろ考えて、早ければ午後一あたりからブログの執筆にあたる。

テーマが早々に決まれば朝から下書き作業に入る。

今日のようになかなかテーマが決まらず、夕方くらいから書き始めることもあるが、そういう日は夜遅くまでかかってしまうこともある。書き終われば即アップする。読み返してみて漢字の誤りや表現の間違いが見つかった時は、その場で修正する。

そんな毎日を、最近ワタシは過ごしている。だがもう何も浮かんでこない。考える気力がどこかへ失せたか?


奇妙な人生観を持つ変人。ワタシは自分をそう思う。糞真面目だがどこか間抜け。内面世界にひきこもりながらもやぶにらみで外の世界を洞察する。
こういうヤギは掴みどころが見えない。見えないからこそ知りたい。ブログを書き続ける理由付けをするならそこにある。自分を深める。今ふと思った。
砂粒のような男でも世界を構成する。パズルのピース。必要な存在だ。

分相応な居場所。ワタシがワタシ自身で居られる安全圏。心に闇を抱え、文不相応な場を居場所と勘違い。後味の苦味を噛みしめる。改めて抱え込んだ闇の重さを思い知る。

(とある一日)
昨日は眠気と微妙な倦怠感を覚えていた。症状に変化はなし。
おそらく、病気などしなくともワタシには自分が自分で居られる場はそうそう無かった筈だ。
強いて言うなら江戸川競艇場だったのか?

(別の日)
今日は疲れていたせいかよく眠れた。
先月はAV女優のイベントに行った。お店の中は空気が淀んでいると感じた。こつこつと5百円玉貯金をした。その金でDVD代や飯代等をまかなった。
イベントそのものは可もなし付加もなし。これは営業。
そう感じた。。。
女優本人は淡々と仕事をこなしていた。1時間弱で終了。
その日のうちにその女優のブログにコメントを残した。朝見ると削除してあった。他のコメントは掲載してある。本人が消した。憤った。冷淡。ワタシもそのブログを削除した。
何故と問いかけても無駄。相手は削除する。自分の立場や抱え込んだ闇について洞察した。ここにも居場所はないらしい。
もう探そうとも思わない。闇から闇へ。くさいものにふたをするがいい。

これ以上書いても無駄だが思考力は冴えている。物事の道理はわきまえてるつもりだがどこかで非常識な面が顔を出す。
自分ではなかなか気づかないものだ。外側との人間関係が皆無に等しい毎日。気づいたときには守りに入る自分がいる。
何に怯えているのだろう。思考の暴走はいつものことだ。外界との接触を避けている。
自分のなかにあらゆるイメージや空想、推測が渦巻く。それらは大抵は的を射ている。なぜなら「現実」をも見据えているからだ。
代々木忠監督は言った。「一度イクと楽になれるから!」

ワタシの唯一の楽しみは江戸川競艇場帰りに寄る【東京健康ランド・まねきの湯】であった。塩サウナで滝のように汗を出したあとは、刺身をつまみにビールを呑みながら【まねきの湯ライブ】を楽しむのである。30年通った天然温泉。もうすぐ閉館するらしい。。。

いま一番思うことは、自分が地域社会で孤立しているという事実。これは十分に怯える要素になっている。孤立は怖い。

独りきりだと思うとやりきれない。ワタシにも当然ながら感情はある。地域社会での孤立については具体的根拠を示す必要性は感じない。誰とも付き合いはない。付き合いたいとも思わない。ワタシは猜疑心のかたまりだ。他者を信用するまでに時間をかける。そして、孤独に身を苛む。
シロヤギを思う。人生の孤独な負けヤギ。
金が無くて1日2回の食事でも追いつかない。それでも気持ちは緩やか。不安を感じない。ふと、同級生のSさんを思い浮かべた。ひきこもり時代のワタシに仕事を世話してくれた恩人。定期清掃からデリヘルの送迎までありとあらゆる仕事を体験した。彼なくしてワタシはない。
疎遠になった友人、知人は結構いる。Sさんに連絡を取るか?
ここ何年か音信不通の友人、知人はどうしているやら。連絡先のわからなくなった相手が大半だ。自然消滅。何もしようがない。
いまのワタシは(たぶん)以前より尖ってない。柔らかくなった。
病院の待ち時間もイライラしなくなった。ひきこもりだからなのか?いまもワタシは内側にこもっている。

昨日のアクセス数5。数字に反応した。下がり続けている。
誰も読まなくなったとして、さて、次なる策は如何なものか。
ダニ刺されが酷く、最近痒みでぐっすり眠れなかったのだが、昨晩はハーブのおかげで快眠だった。
そして今朝、Sさんが夢に現れた。一緒に仕事をしている。なにやら哀しげな表情に見えた。彼とはあらゆる仕事をした。植木、草むしり、塗装、ハウスクリーニングからデリヘルの送迎まで。。。
Sさんの知人たちは、実にエネルギッシュで明るく、ユーモア精神に溢れていた。

もし、ワタシが一切の自己表現を封じ込めたなら?ブログはむろん、何もせず、内に籠もったとしたらどうだろう。
実際、さしたる出来事はない。毎日は単調そのもの。
薄っぺらく、黄ばんだ万年床の上でスマホを支え、文字を打ち込む。
一つの文章をとりあえずは完成させ、再び布団に寝ころぶ。同じことを繰り返し、1日を平穏無事に終える。

ヤギさんのギャンブルブログを誰が気に留める?かつては自分の著書を出版し、テレビ埼玉の歌番組や新聞他マスメディアにも顔と名前を出した。
人は自分のことで手いっぱいなのだ。よほどのことでもない限り、ワタシのブログを気にはしまい。
増して、何も書かなければワタシの存在すら人々の記憶から消え失せる。このままで終わりたくない。シロヤギの主張が何かを変えると信じる。誰かが意識を向ける。

これまではAV女優がブログを読むことを期待していた。虚栄心から更新していた。
彼女たちはワタシのブログなど読まない。自分のことで精いっぱいなのだ。
それは誰にも言える。社会の底辺に生存する寄生虫。
ワタシは基本的にいいねをしない。読んでいるのに、誰にもしない。だから誰からもいいねはつかない。
誰にもいいねをしないから、ワタシのブログに遊びに来る人がいないのだ。もしワタシが読んで来たブログに片っ端からいいねを付けまくり、こまめにコメントやメッセージを送り、フォロワーになったりアメンバーになったりして来たとしたら、おそらく毎回100以上のいいねが付くのではないだろうか?勿論いいね返しの義理いいねが殆どであろうが?そりゃあ、いくら読んでもいいねの一つも付けてやらないで読みっぱなしなのだから、ブログの友達なんて増えるわけがない。【まいたん】の予想にのって大儲けさせてもらった時ですら、御礼のコメントどころかいいねの一つも付けなかった。それでいいのだ。

ワタシは競艇場と精神科通院を続ける日陰者。だがワタシにも生きる権利はある。主張する。
ワタシと似たような状況にいる人々の代弁者になれる。

ワタシは社会の負け組。
だが人生の負け組にはなりたくない。

完璧主義ではないが何事も明確にしないと気が済まない。できたら他者と関わらず、自分独りで問題を終わらせようと躍起になる。
迫神経症の症状か、性分か(両方だろう)。
例えば、当ブログ。ほとんどの文面は自分で完了させる。余地を残さないよう細心の注意を払う。実生活での態度はちょっとした言葉にも現れる。自分に問いかけ、自分から答えを導き出す。
唯我独尊。捉え方によっては非常に自己中心的。
若い頃は情動的、衝動的だった。
自分を客観視する術を持たなかった。感情で発言し、行動した。
良くも悪くも率直。不明瞭。抽象的。いまから思えばいつでも「自分自身」だった。それゆえ社会に出ると、攻撃や反発を受ける対象には絶好の標的だったと思う。少しは成熟した中年期に入っても、他者から反発をくらう発言や態度をとっていた(と思う。自分ではわからない)。
40代半ば辺りから自分の発言や行動を明確化する癖をつけた。起承転結。具体的根拠をもとにワタシという人間を表現し始めた。
時折は謎を残し、相手側の想像力に委ねる。ワタシのような人間に発言する場や相手に限りがあるので自己顕示欲を満たすには至らない。そこで自分で自分の思想、人生観等を完結させる。
ある種の逃げだ。それでもどこかで伝える。そう信じている。そうでなければやってられない。
ブログに何かを書き表すことに虚しさを感じる。動機づけがなくなった。
何かをしたいと願うとき、同時にしたくないことがかなり明確に浮かび、げんなりすることがままある。
ブログに自分の素直な気持ちの書き込みを始めて随分になる。
それが何であれ、ネットに書き込みをすること自体、1つの社会参加。
属している。。。

(とある日)
平穏で静か。質素。堅実。地道。そう暮らしたいなら他者と関わらない。
ネットは間接的に他者=社会と自分を結びつける。昨日からウンチが松屋のたんきり飴(柴又帝釈天参道の飴専門店◇実演販売)のように出てくる。
癌が再発したのであろうか?
とてもではないが、静かで平穏な気分にはなれない。

独り身の侘びしさを骨身に染みた人生だった。自分の人生に異性が存在しない現実には寂しさを禁じ得ない。

自己顕示欲は侘びしさ、寂しさから生まれる。自分を知ってほしい。「ワタシもここにいるんだよ!」
そういった心理状態がネットへの書き込みへと繋がる。少なくともワタシの心理にはそれがある。ブログに書き込んでいるうちに気持ちが入ってくる。ぼやけた脳が活性化する。地道にやっていこうと思っている。実際、そのように持って行くよう心がけて来た。
だが逆にそんな自分を表現もしたくなる。本能には逆らえない。
迷い続ける無味乾燥な人生に意味づけを求めるなら一言で済む。孤独。

独り身でいる年月にすっかり慣れ親しんだ。
ありもしない非現実的なイメージを思い浮かべ、理想像をそこに見る。こうありたいと願う自分がそこにいる。
文章化すればあまりに感傷的。もしくは危うい言葉の羅列になる。脳内でつくりあげたイメージはときに途方もない。暗い想念が渦巻いている。

最近は喧嘩をする元気すらない。数年前、新越谷でマンションのチラシ配りをしていた時、リヤカーで野菜や果物を売る連中と場所取りで揉め喧嘩になった。近くの交番からお巡りが来て、免許証と名刺を提出した。
喧嘩には理由がある。
「島を荒らすな!」と向こうから嫌がらせをして来た。ワタシは正当防衛なんだと自分に言い聞かせた。そんな喧嘩っ早い自分が、よくいままでに人を殺めなかったものだ。引きこもりのワタシを年がら年中嘲笑い馬鹿にして喜んでいる近所のババアたち。
社会の中でワタシを疎外し、存在を抹殺してきた人達に制裁を加えてやりたい。大宮市場(鮮魚)の人達は皆いい人ばかりであった。
そごうの同僚には、強烈なまでの憎悪をかつては抱いていた。

「自分を大切に!」今はこの言葉の意味を理解している。
それは同時に救済を求める言葉なきメッセージだった。
まかり間違えば殺人者になっていた。ならなかった。自分を殺す。他者を殺す。ファンタジーを具現化する勇気はなかった。ワタシは迷わない。日高逸子もあきらめない。十年前は好きであった。  Facebookで文通もしていた。
大の仲良しだった。人間関係の悩みも聞いてもらった。

カラスの鳴き声は独り身の侘びしさを助長する。

この前、久しぶりに人と話した。DAISOでダニ捕りシートとダニよけシートを店の在庫全て購入したのだが、レジが完全セルフになっていたので戸惑っていると、店員の女性が丁寧に教えてくれた。昭和のブルマーの似合う素敵な女性だった。ワタシは久しぶりに嬉しい気持ちになったと同時に、その女性に一目惚れしてしまった。

【DAISOのダニ捕りシートです。↑】

終わりが近い。
アメーバブログをなかば無力に更新してきた。
実際は書くことなどない。ギャンブルか八百長かエロか精神病か発達障害のネタしかない。
極めて自己中心的で個人的なブログ。書いた時点で限界を感じていた。

(とある日)
メッセージで批判を受けた。朝からムカついた。終わりにしよう。無力感。空虚感。疎外感。

孤独。激しい怒りが腹の底で煮えたぎる。したいことのできない人生。言葉の使い方一つで意識は変わり、したくないことのできる人生の選択を考える。
嫌なものは嫌だと言える自分で在ろう。

今後しばらくは書かない。そのまま放置してもいい。。。

無職のワタシは毎日が連休だ。毎日が夏休みだと言っても過言ではない。世間が連休だと騒ぎたてるが、ワタシはいつだって家にいる。変化を必要としない毎日を淡々と送っている。
誰もワタシを必要としない。唯一、与作のみがワタシを頼っている。ワタシの日課は与作の御飯作りとギャンブルだ。
だが、ギャンブルでは食っていけない。
老犬の与作は年齢の割には元気だ。呆けてない。
足腰は弱いが歩ける。だから、「散歩ぐらいはしたい」と愚痴る。だが、覚悟は決めている。
ワタシも与作のように覚悟を決めるしかない。61歳。無職。独身。精神障害者。学歴は大学院卒。結婚はない。天涯孤独の身になる。
未来は見えない。久々を静かに平穏に過ごしたい。
もう誰とも関わりたくない。
夢など見ない。日々孤独で構わない。実際そうなっている。
このブログ、作成する義務がない。というより、動機付けが全くない。誰か特に読者がいるわけでもない(それをアメンバーというらしい)。なので、今年のようにどうしても滞る。
「作成したい」とか「アメンバーのために」とかいう気持ちにならない。
放っておいてもいい。

(とある日)
毎朝4時過ぎに起床し、24時前後に就寝。無職だからといって暇でもない。一日にすることは結構ある。規則正しい生活を心がけている。で、実際、規則正しく日々を送っている。身体の健康のため。快食、快便、快眠を大切に。ただひとつ欠けているものがある。会話だ。与作ぐらいしか話し相手はいない。
ひと月、誰にも会わないなど当たり前の日常だ。友人は減少した。それに会うことは滅多にない。日々沈黙だ。だが頭のなかではいつでも会話している。時々騒がしくなるくらいだ。頭のなかの「ざわめき」を鎮めたくなる。ブログ作成はその目的に叶うものだ。義務などではない。「書きたい」という衝動が動機付けになる。その意味ではブログは必要かもしれない。
毎朝、与作が起床するまでの約1時間、孤独を味わう。ゴミ出しをし、独りで朝食をとる。
孤独に浸る。贅沢な時間だ。
そこに義務はない。ブログ作成も同じだ。気楽でいい。

「重い」「暗い」「諄い」「くだらない」「しつこい」「文章が長い」「自分自慢」ワタシのブログ(オケラ日記)に対する評価は、大体がワタシの生き方に重なる。なかには「ギャンブルを辞めろ」「働け」「ちゃんと調べてから書け」等の中傷もある。
具体的にどこをどうするか、といった評価もくる。それもワタシの人生観に連なる。確かにワタシのブログの内容は「コメントしづらい」のだろう。自分を俯瞰する。いま何を感じ、どういう立場にいるか。客観的な視点からあおぎ見る。呼吸を意識し、心臓の鼓動を感じ、いまここに存在する自分を味わう。
すると見える。ずっとシンプルな答えが。
暗い、重い。主観だ。客観的に捉えると暗いも重いもない。目に見える事実しかない。
ワタシは事実を重視する。いわば状況証拠だ。
そこをさらに徹底検分し、真実に至る。
「いまのワタシは疲れていて、傷つきやすい」「鬱かな」「少し休もう」感情が見える。
「悲しい」「寂しい」「ああいまのワタシは寂しがっているんだな」自分を俯瞰、痛みを癒す方法を考える。
憐れな被害者にはなれない。自分で自分をいたわろうと。。。

ワタシのブログ、その表現形態が何であれ、主観的だ。
批判はくる。中傷もくる。感情が出る。心がけていることはひとつだ。
それらの全体像を見、平常心を保つ。それだけだ。

「愛」「魂」「神」
ワタシのなかで禁句にしてる言葉だ。抽象的だし、この言葉をダシに使った瞬間、文章が安っぽくなる。例えば孤独という言葉を何百回用いても孤独は伝わらない。具体例や根拠があってこそ孤独の意味が理解できる。ワタシはこのブログでかなり孤独に触れている。それでもなるべくなぜ孤独か「証拠」を提示しようとしてきた。その意図が成功しているか、伝わっているか、自信はない。
愛について語るならば「わからない」としか言いようがない。愛は無条件なのだ。この社会、共同体、人間関係等々、条件づけばかりだ。「これこれこうしなければダメ」友達も然り。「ワタシはこうするから君もこうしろ」どこも条件だらけ。息がつまる。自分を危険から守るため、もしくは好き嫌いを明確にするため、利益のため、誰かを受け入れ、誰かを疎外する。
日常的に条件や理由づけがまかりとおり、そこにそぐわない者は省かれる。ワタシは様々な条件や理由づけから疎外されてきた。精神疾患、その他諸々。
世の中(社会)のシステムは無条件では成立しないらしい。
ひきこもりが増えるわけだ。
ワタシはできるだけ無条件でありたい。“去る者は追わず来る者は拒まず”ワタシの信条だが来る者は拒んだほうがいいのかも知れない。。。
人生を楽に生きる方法のひとつは、何ものにも期待をしないこと。期待が人生を重くする。
ワタシは常にではないが、何かに期待していた。
日常生活では誰かの優しさに期待する。友達にメールを送れば返信に期待する。挨拶すれば返事は当然と思う。
違う。
人生は自分の思いどおりにはならない。だからこそ葛藤し、疑問を抱き、答えを求める。そこに学びがある。人間はどこまでも成長できる。
失うものが多ければ多いほど、期待をしなくなる。これまでも記してきた。いま、こうして家にひとりスマホを押し続けながら思う。
今までの人生で多くを失った。もう体力が持たない。去年までのワタシではない。人生に期待も失望も抱かない。期待がなければ失望もない。スマホに誰からもメールが来なくなった。来るのは出会い系の迷惑メールか
アマゾンやドコモの詐欺メールのみ。慣れた。
人生にも他者にも期するものがなくなってきた。そのぶんワタシは強くなれたかもしれない。いや、まだまだ臆病だ。
若い頃は随分無理が出来た。
いまは自分で生活のリズムを整えている。

(とある日)
毎朝4時前起床。与作の散歩。ゴミ出し。朝食は軽め。ゆっくり食べる。時すぎにスマホのメールチェック。8時洗濯。量は少ない。
10時買い出し。近所。大抵はセブンイレブン。昼はヨーグルトのみ。あとはブログ。最近は作成がメイン。
以前は読むだけであった。
20時頃風呂。毎日欠かさない。21時、遅い夕食。サラダ、麺類等。3品。
22時頃からDVD観賞。にっかつ映画。レンタルはしない(できない)。去年買い溜めしたものを観ている。一日で一番心安らぐ時間だ。最近は畑中葉子に凝っている。
他は、サスペンス等。
23時頃に日記をつける。毎晩欠かさず。
24時前後に就寝。
一日が終わる。煙草は今まで吸ったことがない。娯楽は競艇とギャンブル全般。健康を保つこと、それを優先する日々だ。
毎日何かに疑問を抱き、答えを求める。そこに学びがある。
今年も沢山のものを失った。
ブログは生活に必要なものだろうか。要は日々の出来事や気づき、想い、情報、気持ち、感情等を記事にし、披露する。読んだ(見た)人は「読んだよ」と印(いいね)を付ける。 親しみを感じ、仲良くなりたいなら友達(アメンバー)になる。それだけ。生活が豊かになりはしない。
ワタシはギャンブル中毒のせいで常に貧乏だ。
ブログをいくら作成しても食えるわけではない。常に明日の食事を案じ、計算し、食えることに安堵する毎日だ。ブログは暇潰しだ。遊びだ。
だからといっていい加減にはしない。真剣だ。
なぜならそこには人がいる。誰かが見ている。つながりを望む「自分」もいる。自己表現は独りでは成立しない。
誰かがいて、何かを感じ、伝え合う。学び合う。互いに前に進む。そこに意味がある。失敗もある。自分の意図が理解されないこともある。だからこそ面白い。ワタシはゼロの状態からアメブロを始めた。最初のころは友達もいて楽しかった。
だが今は苦しんでいる。
少しずつでも前に進み始めた。これからだ。

(最近)
昨日は急いでいた。金曜夜、d払いの現金化にミッドナイト競輪で成功したものの、土曜日、高田ひかるの2レースで勝負しなかった為に生活費が早くも底をついてしまったのだ。
どうせ準優のイン戦で勝負するなら、通算1000勝がかかっていた平山のイン戦で勝負すべきであった。
振り返っても、もう遅い。勝負レースは毎日続くのだ。
軍資金を増やす為に、昨日は急いで押入れの中から《お宝》を出し、ウェットティッシュでキレイに磨きあげた。
そして、仕方なしにDVDを売りに行った。『にっかつ』全6ボックスと、『性○極秘テクニック』全5ボックス。前者はともかく、何度も繰り返し御世話になった後者は惜しかった。
しかも大した額にはならず、余計に落胆した。そのカネは、早速ギャンブルの軍資金にするためネット銀行に入金した。
高田ひかると佐藤貴也が私の命を救ってくれた。濱野谷は前半裏切られた分、後半で大勝負が出来た。津の優勝戦は見して正解だった。終わって見れば穴レースになってしまったが、2・3着にはシリーズリーダーの準優1号艇組が入った。川口の青山は地元じゃないので、少額勝負しかしなかった。浜松の圭一郎を見ていたので、もしや3着までなのでは?と不安がよぎったからである。

(本日)
今日は通院日。4時前起床。
このルーティンは市場(カネトモ)勤めの頃から変わらない。 




病院の近くに乗馬センターがある。いつも若い女性達が馬と楽しそうに戯れている。
そうかぁ?馬は賭けるものではなくて、乗るものなのかぁ?






今日はセブンイレブンに寄った際に、昨日の高田ひかると佐藤貴也で儲けたカネをクレジットカードの返済にまわした。
しかしせっかくの返済も、もはや水の泡であった。


ワタシの人生に劇的な変動はもはやない。
過去にはいろいろあった。そうでなければ今はない。「ない」という言葉に何かしらの意味を持たせたかった。
つまり、今後は何かある。あるだろう。
受動的な言葉だ。能動的に言うなら「起こす」「目的に向かって行動する」起こった事実を把握し、臨機応変に対処。最善の選択をする。ワタシが自分の人生に変動を起こした。
結果ではなく、自らの選択に従った。そのほうが真実に近い。



『ヤギさん、アタマ大丈夫?
ブログのネタが無いって悩んでいるみたいだけど、ギャンブル・八百長・エロ・精神病・発達障害?それだけあれば十分なんじゃない?

あと病院に行って来たって、どこの病院に行って来たんだよ?ヤギさんの逝く病院は精神科だよ?これ以上悪化しないように、精神病院に行っていい薬貰って来ないと?久喜の市役所の近くにいい所があるらしいよ?

あとブログ書く暇があるなら、障子でも張り替えたら?』


【シロヤギは出て来ません。】




『障子紙が無いので応急措置しております。』